kg_noguの愚痴日記

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韓国メディアの取り上げ方2――慰安婦:安秉直名誉教授、日本軍による組織的動員を立証

もうひとつ。こちらも2日前にとりあげられた記事です。
同じく朝鮮日報日本語版から。


Chosun Online | 朝鮮日報 慰安婦:安秉直名誉教授、日本軍による組織的動員を立証 Chosun Online | 朝鮮日報

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記事入力 : 2013/08/07 09:36

慰安婦:安秉直名誉教授、日本軍による組織的動員を立証

安秉直名誉教授、「慰安所管理人の日記」を公開
日本軍の完全統制下で運営
特定の部隊に慰安所を配属させ、収入報告書・営業日報を出させる
「1942年7月に『第4次慰安団』出発」
植民地下の朝鮮で既に数回組織したという明確な証拠
慰安婦をやめた人を再度連れてくることも
慰安婦をしていて出て行った弘子、兵站の命令でまた来た」

安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授(韓国経済史)=写真=は6日、旧日本軍の慰安所で管理人をしていた朝鮮人が書いた日記を公開した。この日記は、これまで詳細が明らかになっていなかった従軍慰安婦の動員や慰安所の運営の実態を、かなり明らかにしてくれる資料だ。
日記の筆者(1905−79)は、1940年代になって統制経済が強化され経済的に困窮したため、42年7月、従軍慰安婦を募集してビルマ(当時)に向かう義理のきょうだいと合流した。この筆者がビルマシンガポールで書き残した日記には、日本軍慰安所の経営実態や従軍慰安婦の生活の様子が描かれている。ただし、42年の分の日記が紛失しているため、慰安婦の募集過程に関する内容が抜け落ちているところが惜しい。
日記はハングル文字と漢字を主に用い、日本語も混じっている。文章は韓国語体だが漢文として読まなければ意味が通じない部分も多く、現代語訳が必要だ。
日記を通して明らかになった主な事実は、日本軍が従軍慰安婦を複数回にわたって組織的に動員していたということ。42年5月、日本軍の南方派遣軍司令部は、朝鮮軍司令部に対し慰安婦募集に関する協力を要請した。朝鮮軍司令部が選定した慰安所業者らは「多額の金を稼げる」という甘い言葉や、まとまった額の金をあらかじめ前借金として渡すなどして、慰安婦を募集した。
募集された慰安婦は、7月10日に業者・管理人と共に釜山港を出発した。「一昨年慰安隊が釜山を出発したとき、第4次慰安団の団長として来た津村氏」(44年4月6日)という日記の記述から、このほかにも日本軍が朝鮮で数度にわたり慰安団を組織したことが分かる。
従軍慰安婦の一部は、数百円の前借金を受け取った。その金は軍から出たというのが、研究者らの分析だ。日記には、これを裏付ける記述も見られる。慰安所業者らは、慰安所を簡単に譲渡し、新たな業者は特に負担もなくこれを引き継いだ。日記の筆者もまた、義理のきょうだいが事故で死亡した後、このきょうだいが運営していた慰安所への縁故権を主張しなかった。これは、事実上軍が慰安所を所有しており、業者は経営のみを担当していたからだ。
また日記は、慰安所が日本軍の完全統制下で運営されていたことも示している。日記に登場する慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所。各慰安所は「航空隊慰安所」「兵站(へいたん=戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)管理慰安所」のように特定の部隊に所属しており、収入報告書・営業日報などの報告書を定期的に所属部隊へ提出した。「(ラングーン〈現在のヤンゴン〉の)インセンにいる高部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が兵站管理に移譲された」(43年7月19日)「村山氏が経営する慰安所『いちふじ楼』が兵站管理になり」(7月20日)と日記に記述されているように、所属部隊が変更されるケースもあった。
さらに、慰安所は軍の命令によって移動した。「55師団から、慰安所マンダレー近辺のイエウという場所に移転せよという命令があり」(43年3月10日)、「ペグーの慰安所『乙女亭』、『文楽館』、将校クラブなど3、4の慰安所は、今回アキャブ地方に移動した」(4月15日)、「『カナガワ』氏は、慰安所移動説があると言って軍司令部で調べてみた」(8月6日)という日記の記述が、これを証明している。
慰安婦暮らしをやめた人が、再度連れてこられることもあった。「以前村山氏の慰安所慰安婦をしていて、夫婦生活を送るために出ていった春代と弘子は、今回兵站の命令で再び慰安婦として『きんせん館』に来ることになった」(43年7月29日)という日記の記述が、このことを物語っている。
日記で明らかになったこうした事実は「民間業者が従軍慰安婦を募集し、慰安所業者が営業のために軍部隊についていった」という一部の主張が事実ではないことを示している。
安秉直名誉教授は「従軍慰安婦は、徴用・徴兵・勤労挺身(ていしん)隊と同じく、戦争の本格化により日本が戦時動員体制の一つとして国家的レベルで強行したこと。しかも慰安婦は、募集時に自分たちがやることをきちんと説明されず、人身売買に近い手法が利用されたという点で『広義の強制動員』と見ても差し支えない」と語った。

李先敏(イ・ソンミン)先任記者
朝鮮日報朝鮮日報日本語版

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こっちは、先の記事より日記の中身について触れた記事です。
で、面白いのは、あれこれ色々と書いているのですけど、日本のメディアが載せたような。
日記の抜粋は掲載されていません。
なぜなんでしょうね?
誌面にそこまで余裕がないのかなぁ。
実名が乗っているので、都合が悪いのでしょうか?
でも、全部墨ベタで隠してしまえばいいのですし……
それ以外に何か都合の悪い事でもあるのですかねぇ。
日本のメディアには掲載されているのにねぇ……