kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

「永遠の0」見ました。

「永遠の0(ゼロ)」を見ましたよ。
何年か前に有名になった映画です。
今頃になって……何周遅れだ、って話ですけども。
見てビックリ、
えー、何これ。このデタラメな内容は。

「生きて帰りたい」って、
あの時代で主人公が口に出して言うのは特別だった。って、
この描き方がひどい。
あの時代は死ぬのが当たり前、みたいな。
もう、大嘘。
これ見た瞬間、ゲンナリしました。
みんな生きて帰りたがってましたよ。
死ぬのはイヤだったし、
戦わないで済むなら、済ませたかった。
でもね、
自分が戦わなくても向こうは攻めてくる。
戦争を始めてしまった以上、「倒さなかったら倒される」って現実を毎日のように見せられて、
その中で逃げ回っていても、
いつかは殺されてしまう。
だから、
「倒される前に倒す」って、
善悪とは切り離して当たり前のように覚悟を決めていた。
というよりも、他に手段がなかったから、戦っていただけです。
好き好んで人殺ししていたわけではありません。
だからといって、日本人が『理性的な善き隣人』だった、ってことじゃないですけど。
現代にたとえるなら、
北朝鮮が核開発を進めて、日本を攻撃するかもしれない。
その前に、
日本に被害が及ぶ前に、北朝鮮の暴走を止めなければならない。
そのためには武力行使も必要だ――っていうのと、同じ理屈です。
自分が死にたくないから、相手を倒す。ただ、それだけのシンプルな理屈ですよ。
そういう当たり前の感情を、
当時の日本人だって、みんな持ってました。
その中で、
他人に戦わせて、自分だけ平和を享受する人間が『卑怯者』とそしられる。
それは当然の成り行きです。
いまの日本だって一部では「フリーライダー」とか言われるのと同じです。
周りの人間から、罵られても仕方が無いです。
そういう事実をすっ飛ばして、
当時の日本が、さも異常だったかのように描かれている。
それで、主人公だけ特別扱い、とか。
いい加減すぎて、
本当に、ウンザリします。


あと、
主人公は『戦闘機乗り』なのですけども、
『戦闘機乗り』で、開戦当初から活躍している生粋の軍人です。
開戦後に大量投入される『召集兵』ではありません。
この、
職業軍人』のメンタルは、
勝敗や兵力の運用方法について、上層部の作戦計画を批判することはあっても、
「日本を守る」ための戦闘を放棄する、というような、
防衛(自衛)戦闘を否定する、そんな考え方は持ってません。
というか、
そんな考え方持っている人は、軍人として使えないので、戦闘機に乗せませんよ。
判りやすく現代に置き換えて言えば、
自衛隊パイロットが、スクランブル掛かって発進するけど、
中国機と遭遇した瞬間に、分が悪いとさっさと逃げてしまう、みたいな。
永遠の0』の主人公はそんな人物です。
勝てる戦闘には参加するけど、負ける戦闘には徹底して参加しない。
(いちおう命令に従って作戦行動していたように描かれてますが、
 同僚の評判からしたら戦闘中にさっさと逃げて離脱するタイプですね)
さすがに、こんな人間、
いくら優秀でも、前線で何度も飛ばしません。
『味方殺し』としか言い様がないので、
空戦技術があるなら、本土に呼び戻して教官職に振り替えます。
当時の司令部だって、
そのくらいの弾力的な人材運用で適材適所に配慮しますよ。
戦闘に向かない人間を、
ずっと前線に置いておくなんてありえません。
映画の中でも後半で、
教官職に就いてますけども。
もっと早い段階で本土に招集されてるべきです。
というか、
乱戦を嫌って逃げ回っていた、と部下が報告を上げた時点で、
営巣入り、
それでも繰り返したら、
敵前逃亡と見なされて『銃殺』行きの軍法会議でしょう。
軍隊、ってのは、
戦いたくない人間でも無理矢理戦わせる仕組みになっているのです。
そういう軍隊の冷徹な組織としての部分もいっさい描かれてません。
なんとなく、なあなあで済まされてます。
ちなみに、
空戦で、
乱戦に巻き込まれて撃墜されることを嫌い、
いったん離脱して、全体を外から俯瞰、把握、整理して、
戦闘に挑むことと、
空域から離脱して逃げることは、まったく意味が異なります。
でも、映画の中では、そういう説明も一切ありません。
ひどいですね。


それとですね、
たしかに、
戦後に発表された手記などの中には
反戦的な考え方や言動が出てくることもありますけども、
そういうのは、
「戦後」の話で、
「日本が敗戦した結果」に基づいた批判であって、
「日本が勝利」していれば、そんな批判はでなかった、と見えるものが多々あります。
戦闘を放棄する職業軍人、なんて。職業軍人の存在理由を全否定する発想です。
当時、どこを探していてもいませんよ。そんな人。
犬死にしたくないから、独自の判断で行動する人はたくさんいましたけども。
それも、結果として作戦を成功させるための、現場の独断です。
自分の命が助かりたいためだけ、では、
「いますぐ軍人やめろ」と言われるでしょうね。
なぜなら、
職業軍人は、リスクを負っている分だけ、
一般国民と比べていろいろな面で優遇されていたからです。
他の隊員達の怒りは当然で(といっても劇中での発言内容は色々おかしい所がありますけども)、
戦うのがイヤなら、なぜ軍人になって給料を貰っているんだ、と、
現代風に言えば、
「金だけもらって働かない役人」が嫌われるのと同じ理屈です。
憎まれるのが当たり前です。
これは、当時の時代の空気のせいではなくて、ごくごく当たり前な
現代のどこの職場でも見られる感情です。
この辺りの描き方も相当いい加減ですね。


ただし、
これが職業軍人ではなくて、
赤紙で招集された兵隊、となってくると、
まったくメンタルが別物です。
「召集兵」ならメンタルはまったく異なります。
もともと戦う必要がないのに、
戦争を始めたために、生活を壊されて戦場にかり出されているのですから。
非協力的にもなります。厭戦気分も強くなります。
それでも、
人手が不足して必要に駆られているからわざわざ連れてきて補充しているわけで、
戦いたくない人間を戦場から帰したら、
「戦闘続行」が不可能になります。
だから、士気が低かろうが戦場に貼り付けて使うのです。
どうも、
キャラ付けがこの辺の描き分けをきちんとせずに、ごちゃまぜにしているようで。
さすがに、これはないです。
日本兵ハンバーガーを食べながらコーラをガブのみしてサムズアップしている』くらい
おかしな描き方です。
ひどすぎます。


宮崎駿監督がこの『永遠の0』をさして(タイトルは明言してませんけど)嘘八百とか言ったそうですけども。
私もそう思います。
戦争を扱う、ゼロ戦パイロットを扱ってフィクション作るなら、それはそれで構わないと思いますけど。
『当時、そんなことあり得ませんよ』という内容を、
さも『事実』かのように混同させる手法で描くのは、
そりゃあ、
当時を知っている人からしたら、
たとえば、
宮崎駿監督のような、
彼ノ人は生家が軍事産業とも繋がり深くて、大変な苦労をされたみたいですし、
親の因果を子が背負って当時の現実を知っている分だけ、
「苦々しく」思うでしょうし、苦言の一つもいいたくなるでしょうねぇ。
それで、
何がいいたいのか、っていうとですね。
この「永遠の0」の主人公の心情は、当時の兵隊、みんなそう思ってました。って。
それを、
この映画では
主人公以外はみんなバカ、みたいな描き方がされていて最悪です。
こういう物語が
特定個人だけを特別視する『軍神』へと繋がっていくんです。


さて、この映画の最後では、
主人公がなぜ『特攻』を選んだのかわからない、とか言ってますけども、
こんなの見え見えで、
なんで、最後に特攻を選んだのか。
戦争が終わったら、
「戦闘機を上手に操ることができる」なんて能力は社会的にまったく評価されなくなります。
主人公の評価は、
「味方を見捨てて生き残った卑怯者」という事実だけです。
自分の命が大事で仲間を平気で見捨てる主人公は、
「卑怯者」「臆病者」と罵られて当然の人間です。
立派でもなんでもない。
それでも、
周りから「あの人は俺たちのために戦ってくれたんだ」と
かばってくれる人が沢山いるなら、まだ救いがありますけども、
しかし、
この映画の主人公には、そういうお仲間は少なそうです。
そんな世間の評価にさらされ続けて、
困難から逃げ回り面倒ごとは他人に押し付けて自分一人の平和を求め続けるような、
か弱い精神の主人公では、
生き残った後におとずれる針のむしろのような世間の目に、とても耐えられなかったのでしょう。
それで『特攻』という形での『自殺』を選んだのです。
そうとしか見えない。
『特攻』を美化している、とか。どうとか。
そんな話の前に、
この映画に描かれている兵隊さんたちが「おバカすぎ」というか。
当時の人達は、
もっとマジメに戦争してましたよ。
映画「永遠の0」は、かつての日本軍をコケにしすぎです。
フィクションでのデフォルメ、とは言え。
ひどすぎます。

ちなみに、
小説の方は読んでませんので、
今度、機会を見つけて読んでみたい、と思います。
映画では、
いろいろと省かれていた部分があるらしいので。



ただ、
物語の後半で出てくる、
『「特攻」と「自爆テロ」が同じ否か』
これは難しい命題ですねぇ。
ミクロで見ると『特攻』は『一死一殺』の亜流で、
きわめて特殊な戦法、と言えますが、
原理的に見れば、
生還を期せない戦法、
戦略的に勝利しますけど戦術的に局所で見て全滅必死の作戦、
『死守命令』なんてのは、
戦果として原理的に『特攻』と同義なわけです。
そう考えると、
『特攻』というのは、
戦争ではきわめて当たり前の戦術で、
人権という考え方が新しく出来たから、
大義名分としては
兵士は消耗品ではなく一人の人間と扱われるようになったけども、
実際には、
死んで戦果を上げる、って手段が用いられている戦争の現場では、
『特攻』というのは、もっとも原始的でシンプルな先祖返りの戦法、戦術と言えます。
その意味では「自爆テロ」も同じ原理なので、
根は一緒、だと言えます。

その上で、
私は『特攻』と『自爆テロ』はまったく別ものだと考えます。
前者は『戦争』であって
後者は『テロ』であるからです。
これは明確に異なります。
その違いは、
たとえば、
日本と北朝鮮が戦争を始めた場合、
日本が中国を攻撃することは認められません。
『戦争』には、
明文化されているもの、いない暗黙のものなど、とにかくルールがあり、
戦火が限定されます。
しかし、
『テロ』には、このようなルールがいっさいありません。
『戦争』には『始まり』と『終わり』がありますが、
『テロ』にはありません。
『戦争』の中での、一戦術としての『特攻』と、
『テロ』の中での、一戦術としての『自爆テロ』は、
一見すると同じ『戦術』の様に見えて、
まったく異なる条件で用いられている、別物なのは明らかです。

『特攻』と『自爆テロ』を同一視する人は、
きわめて近視眼的で、
本質がまったく理解できていない愚か者、平和と戦争を違いをいっさい認めず、
「平和な東京でテロが発生しても当然で日本人が死ぬのも当たり前」って言い切っているのに等しい、
おバカさんなわけです。
と書きつつ、
私としては、
今現在、世界に「新しい戦争の形」が広がり、
戦火が限定されなくなったために、
現代人には、『特攻』と『自爆テロ』の区別がつかなくなってしまったのだろう、
とも感じています。
なので、
「新しい戦争」の戦火が及ぶ範囲をできる限り早く定義して、
戦場を限定的にするルール作りをするべきではないかなぁ、
と。
アメリカが、
地球の裏側から無人機を飛ばしてミサイル爆撃する戦法も
制限するべきだと思います。
無制限に戦火を拡大している点では、やってることがテロリストと同じですから。
戦争とテロを明確に区別する、
そういう枠組みを「平和国家日本」が率先して作る努力をする、
汗を掻く、べきではないのかなぁ。とか、
この駄作映画を見て思いました――その意味では、役に立ったでしょうか。

ただ、
昨今でいうなら、
ISとの戦闘を『戦争』とするなら、
ISが宣戦布告している国家はISからすでに『戦場』として宣言されているわけで、
ISの攻撃を『テロ』と報道しているような現状が、
『特攻』と『自爆テロ』を混同させるように誘導している、とも言えて。
いちがいに、
混同している人達を『愚か者』と断罪するのも難しい面があります。
そういうことを思うと、
日本は、
もっと戦史を、政治史としての戦史を
公教育で勉強する機会を作って欲しいなぁ。と思いますねぇ。
戦前日本を特殊化している今の歴史教育は明らかに間違っています。
そのため、
日本はもう一度戦争を始めるかもしれませんねぇ。
私的には、
そういう危機感がとても強いです。
日本は、
戦前日本が当たり前の日常の中から戦争を選択した事実を、
きちんと認めて、見つめ直すべきです。