kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

とりえあず、前編 ―― 安田純平さん会見詳報

テレビでは、
やたらと『トランプ大統領が』『共和党が』と、けたたましい事この上ないのですけど。
だって、
明日、明後日には結果が出るんですから。
茶の間で煎餅かじりながら、ノンビリ待っていればいいでしょ。
民主党が勝ったら、夜逃げしなくちゃいけないわけでもないんだから。
とまあ、
日本のメディアはつくづくお粗末になってしまったなぁ、と
イヤでも実感させられる、
今日この頃なんですけども。
私的には、
こっちの話題が、
ピタリと消えてしまったのが……。
やはり、
触れてはいけない舞台裏がある、ということなんですねぇ。
どこのテレビ局も、
この記者会見のあと、
彼の発言を掘り下げて分析して、
その矛盾を突くとか、
そういう番組作りしないものね。
取り上げるのは『自己責任』騒動だけ。
ネットのブログで
細々と記事を掲載しているジャーナリストたちが、
皆こぞってその点を指摘しているけどな。
そういう動きも
テレビや新聞では無かったことになってるし。
日本の大手メディアで
エラそうに喋ってるヤツらって、
腐ってるよなぁ。

……まあ、
取材して、裏取りして、
それなりに時間が掛かるわけで、
会見直後に右から左へと、
角度つけた検証記事なんて書けない、とか
へりくつ捏ねるんだろうけど。
政府批判は、
裏取りもせずに右から左へと垂れ流しているのにな。


というわけで、
個人的に気になっているこの会見記事にブックマーク貼ってみました。
こういう所で、
産経新聞』のネット版って良い仕事するんだよなぁ。
朝日新聞とか、
読売新聞だと、
変な形の要約になったり。
字数制限で全部読めない、とか。
それで、
ネット民から敬遠されてたりするわけですけど。
だから、アンケートでそういう、
産経新聞よりも評価が下位になるのも当然の帰結なわけですが。
なぜか、
ネトウヨ』のせい、みたいな。
訳の分からない理由付けして、現実を見ようとしないし。
あぁ、
なんか話がそれてしまったけど。
愚痴だから、こんなものだよね。




 司会「8月7日に安田純平さんを救う会が立ち上げられ、その日に安田純平さんの奥さまの深結(みゅう)さんがこの場で記者会見をされました。その際に、日本記者クラブ側から、安田純平さんが無事帰国されたら、体力を回復されたころに記者会見をお願いしたいと伝えておりました。体力が回復しつつあるというこのタイミングで、安田純平さんご本人から皆さんに記者会見をして説明をされたいということがございまして、本日このタイミングでの記者会見となりました」

 安田さん「本日は貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます。私の解放に向けてご尽力いただいた皆さん、ご心配いただいた皆さんにおわびするとともに深く感謝申し上げます。本当にありがとうございます。私自身の行動によって、日本政府が当事者にされたこと、大変申し訳ありません」

 《「何があったか、可能な限り明らかにすることが私の責任だと思っています」と話した安田さん。着席し、取材に至った詳細な経緯の説明を始めた。トルコに入ったのは2015年5月末。反体制派武装勢力自由シリア軍」から、イスラムスンニ派過激組織「イスラム国」(IS)に関する資料を入手したという》

 安田さん「それまで表に出ていなかった資料であろうと。イスラム国に人質になったフランス人、『ヌスラ戦線』(イスラム過激組織)の人質だったスウェーデン人のもの(資料)が入っており、信憑性(しんぴょうせい)が高いと考えました。(イスラム国構成員の)家族構成や給料が違うとか、月の予算など、イスラム国が単なる『ならず者』というより、国家のような組織であると感じ、取材をしたいと思いました。15年5月ごろ、反政府側組織がイスラム国に対抗するため、いがみ合っていた組織が協力関係を作り始め、シリア北西部イドリブ県を中心として反政府側組織が一定の安定をみせ始め、勢力を伸ばしていました」

 「アサド政権は空爆などで多くの死傷者を出している。反政府側の組織を見たいと思っていました。絶対的権力のない地域で、人々の地域社会がどのように安定しているのか、おそらく人々の共通の価値観、倫理観であるイスラムが地域の安定に寄与しているであろうと思いました。イドリブ県にはイスラム法廷が設置されていたり、警察組織を組んで治安維持も始めていました。そういった状況の中で生活しているキリスト教徒とか、少数派の人がどういう生活をしているのか、ぜひ見たいと思っていました。イスラムに基づく地域社会というものが外部の人間から見て理解しうるものなのか探りたいな、というのが今回の目的でした。そういった地域に外国人義勇兵も集まっていて、生活しながら反政府軍に関与している。反政府運動そのものを疑問視する声もありましたが、そういった人々がどのような事情でそういった戦闘地域にいたのか、彼らがどんな理想を抱いてそこに来るのか、社会に問題があるのかどうか、というところまで広げることができれば、これからの世界を見る上で参考になるのではないかと思ったのが、今回の取材の目的でした」

 安田さん「現地(シリア)に入る方法を探るため、現地の組織にいくつか当たる中で、日本人の知人から紹介されたシリア難民の小学校を運営している人々と知り合い、そこの難民の紹介で、今回、シリア入りするきっかけをつくってもらったガイドと知り合いました」

《ガイドは、15年にイスラムスンニ派過激組織「イスラム国」(IS)に拘束、殺害された後藤健二さん=当時(47)=のガイドもしていたという》

 安田さん「(ガイドは)後藤さんがイスラム国に拘束され、動画が公開されたときに(抗議の意味で)『I AM KENJI』と紙を掲げて活動しており、彼も顔を出して活動していました。(ガイドは)トルコ(南部)のアンタキヤというところに住んでいたが、顔を出すのは一定のリスクがあった。そういうことを含め、私は彼を信用していました。彼が紹介してくれたシリア側の組織が反米武装組織でした」

 「(15年)6月22日、シリアに案内してくれる人物から連絡があり、国境に近いトルコの町に入りました。ガイドは自分の仕事があるので、兄が受け入れると言っていました。『兄は(武装組織の)司令官で、彼がお前の身元保証をする』と言っていました。国境の町からシリアに入り、ガイドのいとこの人物が車で迎えに来ているので彼の実家に行き、兄と合流するというのがシリア入りについての説明でした」

 「トルコからシリアへの入り方は、国境付近は山岳地帯なんだけど、夜陰にまぎれて入っていく、という方法でした。彼(案内してくれた人物)とシリアに入ろうとしたら、その辺りは多くのシリア人が出入りしていました。トルコ側の国境がかなり厳しい警備で、銃撃された人がいるというニュースもあった。入ろうとした場所は、多くのシリア人の出入りに利用されていました」

 「私は暗闇で待っていました。彼が先にシリア側に入って様子を見ていたら、別の方向からシリア人が入ってきて『人を送ってきた』と話していました。その2人組が私に『シリアに行こうか』と話をしてきて、(計画と)話が違うなと思いましたが、そう話がついているかのような言い方だった。自分でも分からないが、『そういうものなんだろう』と思って一緒に入ってしまった。おかしいと思いながら歩き続けてしまった。これは自分も(どうしてそうしたのか)分かりません」

 「1時間ほど歩いてシリアとトルコの国境だというところも越えて入っていくと、2人組の仲間から、強い力ではないが両腕をつかまれました。ピックアップトラックの後部座席の真ん中寄りに座らされ、彼らが両隣に座りました。目隠しはされませんでした。移動の途中で(イスラム系過激組織『ヌスラ戦線』のものと思われる)チェックポイントがあり、運転手が所属の組織を聞かれていました。運転手はぼそぼそと説明して入りましたが、彼ら(チェックポイントの人物)の仲間である、同じ組織の人に対する通し方と違うと感じました」

 「そこからしばらく車で走り、東側に曲がって20分ほど走り、そしてホブス(パン)工場の事務所に入りました。ここでは荷物はまだ奪われていません。そこに6月22日の深夜に入ったので、23日の朝に彼らの関係者から『荷物を置いてお前だけ来い』と車に乗せられ、連れて行かれ近くの民家に監禁されました。この時点で荷物を全て奪われました」

 安田さん「(拘束直後の15年6月)25日になった時点ではスパイ容疑は晴れたようで、誰もそういうことを言わなくなりました。ただ、監禁は解かれませんでした。26日の深夜に別の場所に移動すると言われて、また車に乗せられました。目隠しはされないんですが、後部座席の周りが見えない形で移動させられました」

 「少し入った辺りの大きな町ではなさそうですが、住宅地の中の集合住宅と思われる建物の地下に移動しました。この時点で彼らは上空に米軍の無人機が偵察に来ると思っているので、『見られないように移した』と言われました。その地下室というのが、非常に水はけの悪い6畳ほどの部屋。床が本当に水たまりに近く、非常に環境が悪くて。毎日来ていた通訳も『この環境はわれわれとしても良くないと思っているので移動する』と言われました。29日深夜に一戸建ての民家に移動させられました。民家は、おそらくそれまで空き家だった建物。床などはかなり汚れていて、私のために探してきたんだろうと思いました。その場所の1部屋を私のために使い、もちろん窓とドアは閉められていて、当初は窓は開いていましたが、外のシャッターは閉まっていました。見張りは、初日からいた人物を含んで、1人はイエメン人、残りはシリア人だと言われました。彼らと話す間に分かったんですけれども。そういう状態で監禁が始まりました」

「当初、彼らもどういう扱いをするか決めていなかったような様子で、あくまで『ゲスト扱い』という言い方をしていました。それが7月下旬に、彼らから『日本政府にカネを要求する』ということを言われました。この時点で正式に人質であることを言われました。8月上旬に『日本に送るから個人情報を書け』と言われました。家族の名前とか簡単なメッセージ、『申し訳ない』といったことを書いて渡しました。彼らは『アメリカにある日本の領事館に送った。メールを送った』と言っていました。シリアではなくて、別の国にいる協力者が作業をやっていると。それに対して、日本側から『カネを払う用意がある。ついては何が目的なのかを言え』と(連絡が来たという)。彼らは金銭であるとか特殊な武器、おそらく対空兵器と思いますが、そういうリストを送ったと。日本側は『武器の提供は無理である。カネを払う用意はある。あなたたちはどういう組織なのか』ということを聞いてきたということでした」

 「その後は、本当にお互いにのらりくらりというか。彼らから言われたのは、『組織名は日本側に言ってない』ということ。私にも言っていません。(反体制派武装勢力)『自由シリア軍』と共同作戦を行っているというようなことを言っていました。彼らは外国の組織や国からの支援は基本的に受けていない。それをやると、(支援元の)言うことを聞かなくてはいけなくなるので、それをしないようにしているんです。お菓子工場とかいろいろなプロジェクトをやって、自分たちで資金を稼いで資金を調達していると言っていました。そういうことで、日本側には組織名は言わないと。私に対しても言わない。組織名を言って、例えば身代金をとった場合、身代金の支払いと同時に報復の空爆を受ける可能性がある。彼らの組織がそういう活動をしていることを、他の組織に知られることを避けたかったのかなという印象でした。最後まで彼らの組織名は基本的には言われていません」

 「通訳からは『組織名は言わなくとも日本側はカネを払うだろうか』と言ってきたり、日本側とやりとりをしているようなことは言われました。それについて私は、日本政府はイスラムスンニ派過激組織『イスラム国』(IS)に拘束された2人(湯川遥菜さん=当時(42)、殺害=と後藤健二さん=同(47)、殺害=に対して身代金を払うことはしていなかったので、私に対してもないはず。日本政府は対応を当然やるはずだと思っていたので、政府は時間稼ぎをしているのではないのか、と思っていました」

イスラム国の事件では(14年)11月に後藤さんが拘束され、12月にはご家族への脅迫があった。その後(15年)1月の末には脅迫ビデオという流れでしたので、本当に日本側が対応しているのであれば、組織名を聞くなりしながら時間稼ぎをしてもおかしくないなと思っていました」

 「その民家にいた間は、彼らからはゲストであると聞かされていたので、部屋にはテレビがあり、衛星番組を見ることができました。その地域にある発電機で電気を供給していて、1日6時間、長いときは10時間くらいテレビを見ることができました。(15年)7月半ばに一度窓をすべて閉められましたが、その後、観音開きの窓がひとつだけ開けられて。この時期は夏だったので、部屋の中はサウナのような状態。窓一つ開けることで、多少過ごしやすい状況になりました。民家ですので、部屋の中にトイレはありません。1日2回、彼らが食事を運んでくるときにトイレについていく。彼らが見張っている間にトイレを済ませてくるという具合ですね」

安田さん「食事の内容は、彼らと同じものをもってきていて、量的にも、特に少ないということもなく、鶏肉だったり、シリアのスイーツを持ってきたり。トルコのラフマジュンというピザのようなものをトルコの新聞に包んでもってきたこともあります。外からは大勢の子供たちの声が聞こえてきたりとか、イスラム教の礼拝を呼びかけるアナウンスだったりも聞こえてきたので、この辺はトルコ国境近くの住宅地であると思っていました」

 「(15年)12月7日には、日本政府に送るための個人情報を書かされました。生存証明が必要になったのだろうと。『日本政府は身代金を払うのではないか』と彼らは思っていたようで、機嫌が良くなっていました。ただ、12月20日を過ぎても日本側から返事がなく、その後は、(国際ジャーナリスト組織の)『国境なき記者団』から(自分が)人質であるという情報が流れたことから、彼らの機嫌は悪くなり、トイレの行き帰りに尻を蹴られることもありました」

 「『日本政府に圧力をかけさせるから、妻の連絡先を教えろ』と言われ、妻の電話番号とメールアドレスを聞かれました。私しか答えられない質問も聞かれました。その後、別の一戸建ての民家に目隠しをされて移動した後の1月19日にはまた同じ質問を聞かれました。(質問の)意味が分からなかったのですが、日本側から返事がなかったのだろうと推測しました」

 「報道で出ているのは、この2回目の(メッセージの)方ですね。『オクホウチ』と書いたのですが、これは、妻のことを『おく』と呼んでまして、それに『ほうち(放置)』と。妻には、何かあれば放置しろと常々言っていましたので。しかし、私が質問に答えた後に、日本側から返事が途絶えたので、(武装勢力は)私が何かメッセージを送っているに違いない、と思ったようで、頭を蹴ったりされました」

 「3月14日、『ビデオを撮影するのでこれを読め』と台本を渡されました。15日にはビデオを撮影。『感情的なものを出せ』とも言われて、家族に対するメッセージや彼らが用意した詩のようなものをつけました。公開される動画になった場合、その中にメッセージを入れてしまうと、解読される可能性もあるので、そういったメッセージは入れませんでした」

 「動画の撮影が終わった後からは、また彼らの対応が良くなり、1日2回の食事の間にカップラーメンやスイーツなどおやつをもってくれるようになってきて、それが1カ月続きました。これまでには『殺すことは絶対にない』と言われていたので、1カ月様子を見て、その後、私をほうり出すのではないかと思っていました」

 「また、5月9日には別の一軒家に移動しました。5月14日には、日没前のまだ明るい時間に、誰かが家の門を開けて入ってきたような様子がうかがえました。見張り役は、その人物を中に引きずり込んで、何か英語で話していました。私の部屋の前で、棒のようなものでその人物をたたいている音やうめき声も聞こえていました。兵士のようでした。その人物が、私がいることを知っていて入ってきたのかどうか、気になりました」