kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

そんでもって、後編 ―― 安田純平さん会見詳報

ここ最近、
日本のメディアはアメリ中間選挙の情勢ばかり取り上げて、
うるさいですね。
日本人が選挙に参加できるわけでもないし、
結果を受け入れるだけしか出来る事がないんですから。
ほうって置けばいいのに。
いや、
日本メディアが垂れ流している
新聞とかテレビのニュース見て会社の方針を変えるとか、
そういう阿呆なコトしている人に需要があるのなら、
仕方がないのですけど。
そんな大事なこと決めるのなら、
日本メディアの垂れ流すいい加減な情報よりも、
現地の情報を集めて分析しなさいよ。と。
日本メディアの垂れ流してる『トランプ大統領』の評価なんて、
的外れもいいところなんですから。
というわけで、
個人的に気になっているのは、
こちらの方なんですけど。
記者会見のあと、
まったく情報がでなくなりました。
今の所、
最新の情報が
記者会見だけです。

この会見、
ネットに動画も上がっていますけど……
長い、けっこう長々と喋っています。
そりゃあ、
3年も拘束されていたので、
その間の出来事を一気に語るとなればそれなりの時間になるのは分かるのですけど。
でも、
この会見の場を設ける前に、
先に日本政府の役人と何度か話し合っているので。
ある程度、
その時点で『模範解答』みたいな、
外部に公開して良い情報のレベルは打ち合わせ済み、だと思うのですよ。
たぶん、
嘘を吐くような指示は出ていない、と思います。
後々で、
発言内容と事実の間に齟齬が見つかったときに追及されても、
問題ないように、
その辺はキッチリ管理しているはずです。
『公開しない』=『分からない』『覚えてない』で情報を公開せずに
スルーする。
というのが常套手段でしょう。
マスコミが濫用する『報道しない権利』ですね。
それを踏まえた上で、
会見の内容を見ていくと。
まず気になるのが、
当初は『日本政府かどこかのスパイ』と見なされていた、そのために拘束された。
という説明。
そして、交渉が始まるのですけど。
ここで最初に連絡取れた日本側の窓口が、
『日本政府』とは明言していません。
ということは
たぶん民間の保険会社か、血縁、仕事繋がりの元請け会社、とか。
日本で交渉を開始したのは、
公的機関では無く、
安田氏周辺の関係者個人、もしくは組織ではないのかなぁ。
それで、
当初は、
この個人的な窓口との交渉で、拘束した組織に身代金が支払われる……という流れになったのではないでしょうか。
そして、
それを後追いで日本政府が察知して、
交渉の窓口を政府へ切り替えて一本化するようになった。
とか。
私的には、そんな段取りだったのではないかなぁ。と
語られた裏事情を推測しました。
なんで、
そんな面倒な流れを考えたのか……というと。
最初に拘束した組織が、
安田氏が日本人であることを知ってて、それでも『身代金が取れそうだ』と見なして『ゲスト扱い』している点です。
で、その後で、
日本人が拘束・監禁されている……という情報がマスメディアで明らかになって、
態度を豹変させています。
つまり、情報がオープンになってしまったために、
日本政府が全面に出てきて交渉に臨み、金を払えなくなった……と理解して、
安田氏に対する扱いが酷くなったわけです。
それまでの、
マスメディアに情報が流れる以前は、
裏交渉で確実に金が取れる、という確信があったから、
さっさと金を取って追い払おう、とでも考えて、
安田氏をゲスト扱いして。体力的にほとんど負荷が掛からない生活をさせていた。のでしょう。
つまり、
この時点で、ある程度身代金交渉が進んでいた。
で、安田氏本人は『日本政府ならそういうことはありえない』と現場で見てますから、
身代金を払うのは、
安田氏個人周辺、とか仕事繋がりの組織とか、でしょうね。
つまり、個人的な窓口との『身代金』交渉が進んでいた。
それが、
拘束情報が表沙汰になっとで、頓挫して。
日本政府との間でやり直しになるわけです。
しかも、
日本政府は『身代金は支払わない』ことを公言してますから。
そうなると、
拘束した武装勢力側には、簡単に金が入ってこないことになる。
つまり、
武装勢力側としては、
予定していたキャッシュが入ってこないので、
資金繰りが計画通りにならなくなるわけで。大変困ったことになる。
なので、
どこでもいいから、とにかくまず貰える相手から貰って、
としたことで、
当初拘束していた組織から、
日本政府と交渉できるような大きな組織へと、
事情・立場が変わったので、
それに見合った交渉ができる組織に、安田氏の身柄が金で売られた。
だから
結果として
3年以上にわたって長い間拘束されてしまった。のではないか、と。
途中で、
施設を何度か移動させられていますし、
ここに書いたような取引が行われた可能性は、
十分以上に有り得ると思います。




その辺の検証取材とか、
誰かやってくれませんかねぇ。
待っているのですけど、今のところ続報は梨の礫で。
本が1冊書けると思うのだけど。
安田氏本人が、
著述してどこかの出版社に持ち込んで書籍化して、
売り出してくれないかな。
幻冬舎とか。やってくれそうだけど。



《内戦下のシリアで2015年6月に拘束され、約3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリストの安田純平さん(44)が開いた2日の記者会見。安田さんによる拘束から解放までの経緯説明は、会見終了予定時刻の正午を過ぎても続いた。内容は拘束中に他の囚人と会話を交わした話などに入っている》

 安田さん「私は部屋を何カ所か移されましたが、周りにいる囚人も変わっていきました。外国人の義勇兵がたくさん捕まっているようで、エジプト人、ヨルダン人、パキスタン人らがいて、互いにぺらぺらしゃべっていました。それぞれ自分(の所属組織)はイスラム教過激組織『ヌスラ戦線』、イスラムスンニ派過激組織『イスラム国』(IS)と、会話の中で言っていました。それを聞いて、ヌスラの囚人がいるんだなと」

《安田さんは当時、自身がヌスラ戦線に拘束されていると考えていたため、この会話を聞いて「どういうことか分かりませんでした。今でも分かりません」と振り返った》

 安田さん「彼ら(他の囚人)も『あと何日で解放される』という具合で深刻でない様子でした。看守とも冗談を言い合っていたので、深刻な立場にあるという印象はありませんでした。(シリアの)アサド政権の兵士も捕まっていて、彼らはたびたび拷問を受けていて、叫び声が何度か聞こえました。棒のようなもので殴っているような音が聞こえました」

「途中から部屋を移され、彼ら(拘束されていた組織)の事務所のすぐ横の部屋に移されました。事務所は尋問で使われていて、囚人の尋問の声がよく聞こえました。ヌスラの捕虜に対する尋問です。ほかにシリア軍の兵士であるとか、別の組織のムジャヒディン(イスラム聖戦士)と言っている外国人を尋問している声も聞こえました。事務所のすぐ横でよく声が聞こえましたが、(さらに)すぐ横にはトイレがあり、そこからも音がよく聞こえるので、こういう部屋に入れたというのは(声が私に聞こえても)気にしていないのかと思いました」

「(不審に思われないよう)私はトイレに行くときも流す音をあえて大きくして『ここにいる』と知らせるようなことをしましたが、(彼らは)私が盗み聞きをしている、スパイ行為をしていると解釈したようでした。トイレに行った直後に別の囚人を連れてきて拷問を始めました。部屋のすぐ外で(その音を)聞かせるというようなことです。何をしたのが悪いとは(私に)口で言わない。察しないといけないんです」

 「2017年3月の半ばごろには英語のコーラン聖典)を読みました。そして2日後に話をしようと言われ、(イスラム教に詳しい)通訳が来て談話をしました。なぜイスラム教が生まれたのかなどの会話をしました。事務所にはヌスラの囚人の尋問をした資料の束とかがあって、部屋の中の棚の引き出しがいくつかあったのだけど、そこにはロゴが貼ってあって…。当時、ヌスラは看板を替えて(別の組織名を名乗って)いたが、そのロゴを貼っていました。(自分たちの)組織名を言わないと言っていたのに、どういうつもりだろうと思いましたが、このころ、すでにヌスラが(自分を)捕まえているというのが確定事項のようになって(報じられて)いたので、ヌスラのふりをしていたのかなと思いました

 「(通訳との)面談の少し前に施設のリーダーであるという人物が来て話をしました。英語ができる人物で、『東京から来たのか』と何度も聞かれ、『東京だ』と答えました。自分が周りの囚人と話してはいけない理由というのが、解放された囚人が話したことで、報道されている日本人の人質がここにいるとばれてしまうかもしれないので、周囲に(安田さんだと)特定できるようなことは言ってはいけないのだと理解していましたが、それに対してリーダーはあえて『東京から来たのか』と。『アー ユー ジャパニーズ?』(おまえは日本人か?)と20回くらい連発してきました。ここで『日本人』と言うと『言ってはいけないことを言った』として拷問が始まってしまう」

 「彼(リーダー)から『改宗は強制しないから』と言われていましたが、面談の中で戦いについて『敵対する相手、異教徒に対しては改宗を求める。しないなら人頭税を求める。拒否したら殺害する』と言っていました。(『改宗の強制はあるのでは』という趣旨のことを言ったら)気分を害したようで、『今まで強制するなんてことを言ったか』と。言われていないけど、上(上層部)がどう考えているか分からないし、言い争いではないが、雰囲気が悪くなりました。そうしたら翌日、拷問が始まりました。他の囚人を連れてきて。強制しないと言っているのに、私が『強制(するのでは)』と言ったので、『そんな組織ではないのに分かっていないのか』という(意味合いの)拷問でした。直接、私に何も言わず、メッセージ(の意味で拷問)をやってきます」

 《20日間に及ぶハンガーストライキの末、18年3月に武装勢力から「日本に帰す」と明言された後も、拘束期間は延びていったという》

 安田さん「平屋の刑務所に移されました。真ん中が中庭になっていて、ドアには小窓がついている。そこから食事を持ってくるんですが、『2日間そこにいてから、もっと良い場所に移す』と言われ、『そろそろ解放か』と思って(それまで許されていなかった)水浴びをしてしまいまして。そうしたら、部屋の電気を落とされました。(18年)4月5日ごろ、『家族の思い出を書け』と言われました。帰すと言っているのにもかかわらず、そういったことがあった。結局、帰されるはずだった4月半ばも過ぎていきました」

 「この施設にいた全員がウイグル人でした。アラビア語ができる人間がいたり、いなかったり。覆面はしていなくて、持ってくる食事も彼ら自身がつくるウイグル料理でした。南の方向には山が見えました。山はトルコにある山のようで、この場所は、ウイグル人のコミュニティーがあり、トルコの山が見える…そういった場所でした」

 《この施設で半年ほど拘束されている間には、動画撮影もさせられたという。安田さんが日本語で「私の名前はウマルです」と話しているものだ》

 安田さん「私が改宗したときに、ウマルというイスラム名をつけています。『日本語で名前と日付を言え』と言われ、日本語で話しても彼らは分からないので、『日本語で言わせるということは、彼らが分かる部分を入れなければ』と思い、『ウマル』と言いました。彼らなりの遊びとかゲームとかをやっているのだろうと思っていました」

「7月25日には、『ウマル。韓国人です』と話す動画の撮影をした。『助けてほしい』というのは、全て日本語で言えと指示されました。動画は、泣いているバージョンと泣いていないバージョンを撮りました。泣いているバージョンでは、唐辛子を要求して、涙が出るようにしました。そういった動画をいくつか、何回か撮られましたが、公開されたものもあれば、されなかったものもあるようです。9月29日、以前いた大きな施設に戻されました。その後、10月15日ごろに、以前入っていた、身動きしてはいけない部屋に移されました。扇風機があったので、(音がまぎれるので)寝返りくらいは打つことができました。代表者と話したときも、『あと1週間くらいで帰す』と言われました」

 「それからまた、『動いてはいけない』というゲームが始まり、それをクリアしきれず(監禁生活は)延びていきました。さすがに、20日間ハンストしても無理だったこの部屋にいるのは『無理だ』と、泣きつきました。イスラムの文言を読み上げて『いいかげん許してくれ』と言いました。とにかく『これ以上やるくらいだったら殺してくれ』、と。『帰すか、もしくは殺してくれ』と。トイレにも行けないということは水も飲めない。かなり異常だと思うんです。『あなたが立派なイスラム教徒であると信じる』『(シリア入りから)40カ月、これをめどに解放してくれ』と強く訴えました」

 「10月22日、ちょうど(シリアに入ってから)40カ月。午後、『今から帰すから』という連絡が来て、車に乗りました。今晩か明日かという話だったが、翌朝、『今からトルコに行くから』と車に乗せられました」  

安田さん「車に乗り込むと、『今から日本だぜ。うれしいか? お前、東京に住んでいるのか?』といわれて、『東京だ、東京だ』と言ってしまったんだけど、これも日本人とは言っちゃいけないルールだったようでした」

《拘束中、自らが日本人であることが分かる発言をすることは禁じられていた》

 安田さん「結局この日夜、一戸建ての民家に移されました。一晩ひっぱられて、翌23日の朝に『今からトルコに行くから』といわれて車に乗せられました。また移動して車が止まって、彼らが何かやりとりした後に車から降ろされて、また別の車に乗せられて、車の中で英語で『もう大丈夫だから。お前もう(トルコの)アンタキヤ直行だよ』と言われました。彼らは『トルコ人だ』と言ったんですね。それでたばこを吸い始めた。私が監禁されている間、ずっとたばこを吸う人間はいなかったので、これは彼ら(武装勢力)じゃないなと。彼らは本当にトルコ人なんだなと思いました」

 「その車に乗せられたときも目隠しはされていました。国境付近からトルコのハタイ県アンタキヤという土地まで運ばれました。そこの入管施設の100メートル手前になって目隠しを外され、『お前はこれで解放された』と言われました。入管施設に入れられて、事務所で『解放だよ』と。私の解釈では、トルコの情報機関がおそらくシリア側まで入り込んで私の引き受けをしたんじゃないかと。トルコ側に戻す間は目隠しをしていましたが、トルコ側で身元引き受けをしたのなら目隠しは必要なかったと思います。シリア側にどこからどこまで入り込んだのかを隠すために、トルコ側が引き受けたにもかかわらず、1時間近く目隠しを続けたのではと解釈しています」

「トルコ側がオペレーション(作戦)に成功して私の身柄を引き受けたとアナウンス(発表)していますが、そのオペレーションというのはシリア側にまで入り込んで、私の身元を受け取ってアンタキヤまで運んできたというのが彼らのオペレーションじゃないかなと解釈してます。つまり、トルコの情報機関が襲撃をして身柄を確保したとかそういうことではなく、彼ら(武装勢力)の側から通報を受け、場所の指定があり、そこで身元を引き渡すという連絡があって目的通り遂行した。そのオペレーション成功というのが彼らのアナウンスじゃないかなと解釈しています。ここまでが解放までの流れです」

 −−(代表質問)安田さんが日本に帰国されて、匿名のネット上でのバッシング、あるいは「自己責任」といったような議論があります。こうした日本社会の現状についてどのように受け止めていますか

 「私自身の行動によって、日本政府並びに多くの皆さまにご迷惑をおかけしたということもあるので、私自身に対して批判があるのは当然のことと考えています。何があったかを含め、皆さまに批判いただき、検証いただくのは当然だと思っています。そのことについては特に私の側からは疑問はありません。ただ、事実に基づかないものもあるように思いますので、あくまで事実に基づいたものでやっていただきたいという私の願いはあります」

 「自己責任についても当事者である私が述べるのは非常に言いづらい。紛争地のような場所に行く以上、当然、自己責任であると考えています。これは紛争地において日本政府が何かしらの救出をするのは非常に厳しい環境である。だからこそ、政府は退避勧告といったものを出しています。そういった場所にあえて入っていく以上、自分が相応の準備をし、何かあった場合に自分に起きたことは自分で引き受ける準備、態勢としての準備、それから自分自身の心の準備をやって入るものだと思っています。そこで自分の身に対して起きることははっきり自業自得だと考えています」

「一般論になりますが、そのことと行政がどうするかは全く別のものであって、本人がどういう人物であるか、どういう準備をしたかということと、行政が行うことは全く別として存在していて、その本人がどういう人なのかによって行政の対応が変わるとなると、民主主義国家として非常に重大な問題であると思います。今回、外務省の対応について、国として行政としてやるべきこと、できることをやっていただいたと解釈しています。紛争地で人質になった日本人の救出は非常に難しいという中で、可能な限りの努力をこの3年4カ月の間続けていただいた。解放の理由やきっかけは分かりませんが、日本政府の原則として邦人保護は必ずやる、それから身代金は絶対に払わない。この2つが大原則。その範囲の中でできることをずっと探っていたと思います」

「外務省の方とは話しましたが、その間、情報収集した内容なども伺っています。報道されている私の近況はかなり事実と異なるものもあります。たとえば、トルキスタンの施設で平屋の独房で私が2部屋を使っているとか、周囲の部屋が高くなったので、本人が神経質になっているらしいとか、これは事実に基づかないことです。(今年)9月下旬の段階でも、外務省に入ってきたそういう情報はかなり錯綜(さくそう)していました。情報収集はかなり困難だったことがうかがえます」

 「あたかも拘束者とつながっているようなふりをして、いろいろな話を持ちかけて来る人もいます。その中で本当に私の状況を知っている人物を選ぶのは非常に難しいことです。本当に捕まえている組織にたどりつくのは外務省であっても困難だったのかなと。それについて私も理解していますので、外務省の努力に対して私自身、何か不満に思うことはないし、その間家族のケアもしていただきました。本当にありがたいです。その旨についても、アンタキヤの施設で外務省の方が来て私の身元確認をしたときに、最初の言葉として伝えました。持っている限りの情報を提供するとも伝えました」

 −−(テレビ朝日)大変つらい経験をされたと思いますが、今後も紛争地での取材を続けるのでしょうか。その理由も教えてください

 安田さん「今現在、今後も行くかどうかは全く白紙です。分からないです」

 −−(朝日新聞)最初の説明で、(15年にイスラムスンニ派過激組織「イスラム国」に拘束、殺害された)後藤(健二)さんと以前仕事したことのあるガイドと知り合い、その人のつてで(案内人と)契約したということでしたが、結果的に、(シリアに)入ろうとした、あるいは、入った後にすぐに拘束されています。当初からだまされていた、計画段階から人質としてみられていた、と感じることはありますか

 「道案内人が1人で様子を見に行っている間に、私は別の方向に入ってしまったんですね。完全に私の凡ミスというか、自分でも考えられないようなミス。計画的とは考えにくいと思っていて、すべて仕組まれていたかというのは、どうかなと…」

 −−(東京新聞)拘束した武装勢力と日本政府とのやりとりや接触について、政府からいつどんな説明を受けたのでしょうか

 「これは私の家族に対して、私が捕まっている間に説明がありました。(今年)9月11日に『来週、政府高官が現地に行って信頼できる人から情報を聞く予定である』と。その後、19日に家族がまた話を聞いて。(政府からの話の内容は)『体の状態はよい。食事は取れている。ただ、たくさんもりもりと食べるような状態ではない。しかし、精神的にはかなり疲れている』『彼らのトップと話ができている。拘束者はフーラッス・ディーンである。フーラッス・ディーンというのは、ヌスラ戦線(イスラム過激組織)の中から分離していって、外国人をかなり含む組織。ヌスラ戦線が脱アルカーイダ(国際テロ組織)に向かう中で、アルカーイダのような活動をさらに続けたい人々が集まっている組織。そこに身柄が移った。イドリブ県の西のあたりを動いている』『一般家庭の1部屋か2部屋を1人で利用している。家の周りのコンクリート塀が高くなって、それが精神的ストレスになっているかもしれない。身代金以外の解決の手段を探っている』というような話ですね」

 −−(毎日新聞)紹介された案内人を信用したということだが、信用した根拠は何でしょうか。それが過ちだったと思うことはありますか

 「実際に(シリアに)入ったということは案内人を信頼したということなんですが、他の日本人のジャーナリストという方から紹介された、シリア人の難民支援をしている小学校の人たちから紹介されました。それから後藤さんが前に案内された人であると。入り方の説明であったり、後藤さんとのかつてのやりとりであったりを、たとえば子供たちの写真を見せてもらいましたが、後藤さんと一緒に衛星機材を入手して、ネットにつないで勉強するプログラムを立ち上げたと。後藤さんと買った衛星機材はこれだという話を聞きました。そういう人であるなら、大丈夫なのではないかと私は判断しました。彼らがだましていたかは分かりません。入り方が完全に私の凡ミスであることが大きいと思います」

 「それから、15年の10月末に私のいた部屋の窓の外に人が来て、話しかけてきました。『お前誰だ』と聞かれ、『日本人だ』と。『純平か』と聞かれて、『そうだ』と。『なぜそこにいる、何をやっているのか、どうしてほしいのか』と聞かれて、『監禁されている。彼らはカネを求めている』と(答えた)。『どうしてほしい』というのがよく分からなかったので、『うーん』と言っていると、『例えばカラシニコフ自動小銃)とかRPG(対戦車ロケット砲)とかどうだ、襲撃して助けてほしいか』と。『そりゃ助けてほしい』と言うと、『30分後に来る』と」

 《しかし、話しかけてきた人物は、武装勢力に捕らえられてしまったという》

 「捕まった彼が部屋に引きずられてきて、(武装勢力が)『こいつと何を話したのか』と(質問してきた)。私はテレビでNHKワールドを大音量で流していて、『ジャパン、ジャパン』と流していました。ひょっとして近所に日本人がいるという噂が流れるんじゃないかと思って。本当にわざわざ救出に来たということであれば、だましたということではなかったのかなと。その後、『彼がどうなったのか』と聞いているが、まだちょっと分からない。大きな施設で囚人の尋問をするときに、日本人を助けようとして捕まったと言われている囚人がいるということも聞いて、彼らがわざとやったんではないだろうと思っています。これは特定できない、これ以上は分からないです」

 −−(日本テレビ)長い拘束生活の中で、かなり苦しい生活もあったと思いますが、身動きのとれない生活の中で絶望するような瞬間はありましたか。そのときの心境は

 安田さん「身動きが全然できない。どう考えてもこれ(武装勢力の要求に従うこと)は不可能だと思ったときには、かなり腹が立っていて、ドアを蹴りまくりました。『そんなに聞かせたくないなら、鼓膜を破って耳を潰してくれ、それでいいじゃないか。一生耳が聞こえなくても家族と話すことができなくても、俺は帰りたいのだと、それでいいじゃないか。音を聞かれたくないなら、それを望んでいるのだからやってくれ』とかなり言いました。無視されました…」

 −−(日本テレビ)絶望の瞬間は

「ドアを蹴りまくったときは絶望感ですよね。これはもう不可能じゃないかと。何回もありました」

 −−(共同通信)相手の組織について。人数や年代、リーダーの容姿など、詳細を教えてください

 「最初の民家にいたときは5人、時々連絡役で来る人物がいたり、動画とか写真をとったりする人が来ていました。大きな施設に関しては地下1階、地上5階。3階部分に上の抜けている部分があって、そこで囚人に日光浴をさせる場所がありました。何回か運ばれました。目隠しをされてそこに行く。その途中の様子から3階であろうと。そこから上がっていくと、さらに2つフロアがありまして、4階、5階、かなり大きい施設。100人単位の囚人がいるのではないかと思います。そこに、食事を配ったりしている彼らはかなりの人数である印象です。彼らの話し声であるとか、相当な人数がいるんだろうなという印象は受けました。年代は10代、17歳と言っている人もいましたし、年配の人物もいました」

 「施設のリーダーの容姿ですが、顔は俳優の松平健さんのような顔をしていて、私は勝手に『ケン』と頭の中で呼んでいました。そういう顔をしている。体格がかなり良く、英語ができる。彼はイラクに行ったことがある。クウェートに近い刑務所と基地の複合施設ですね、キャンプ・ブッカというところがあるが、そこで働いていたことがあるということでした。彼は2003年、米軍侵攻の前に、シリアから義勇兵として入った。サダム政権崩壊の翌日に米軍に捕まった。そこで通訳として雇われることになって、2004年だけブッカコンパウンドで働いたと言っていました」

 「彼ら自身はずっと(イスラム過激組織の)ヌスラ(戦線)であるということは、明言はしなかった。初期のころはかなり強く否定していました。他の組織から捕虜なりを引き受けて対価を得ている組織なのではないかという印象です。他の組織から引き受けているのではないかと思っていますが、これ以上は分かりません」

 −−(ジャパンタイムズ)戦場での報道は安田さんの使命だと思っていますか。また必要性についてどうお考えですか

 「使命というのは誰かから与えられるだろうと。私自身が求められているとか、おこがましいことは考えたことはありません。あくまで私自身が知りたいこと、疑問に思っていることを、現地で取材して知っていただくことができればいいと思ってやっています」

 「必要性については、国家と国家が争う場合、国家が武力を行使する場合について、国家というのは原則として人の命を守る存在であると思いますが、戦争というのは国家が人を殺すという決定をすることです。われわれ国民はそれでよいと判断するのか否か。そのための判断材料は当事者から提供されるものだけでなく、第三者から提供されるものがあるべきだと考えています。現地の情報は絶対に必要だというのが私の感覚です。難民が出てくるとか、巡り巡って日本にも影響があるもの、直接軍隊を送ったりとかでなくても、地球上で、紛争なりが起きている場所があれば、そこで起きていることを見に行く、現地に入るジャーナリストの存在が絶対的に必要であるというのが私の感覚です」

 −−(NOBORDER NEWS TOKYO)安田さんが帰国し、注目されていると思います。一方、報道ではシリアの現状が伝えられていない。現状についての考えを教えてください

 「まず、私自身の行動によって、日本政府並びに多くの皆さまにご尽力をいただきました。私の行動がどうであったのか検証されるのが当然だと思っています。私自身について注目が集まるのは、当然のことであると受け止めています。できれば、さらにそこから進んで、何が起きているのか、この先、どうすべきなのか、関心を持ち続けてほしいです」

 −−(フジテレビ)奥さまが(救出のために)活動してきたと知って、今後の活動に関して気持ちの変化はありましたか

 「家族には、何もしないようにと言っていましたが、家族の心境としてそれは難しい。思っていた以上に、立派な対応をしてもらったと感謝しています。両親はかなり年でして、捕まっている間に亡くなっていたこともあり得たわけで、ずっと気にかけていましたから、親孝行をしなければいけないのではないかと考えていますので、今後の取材の仕方という部分でもうちょっと慎重に考えることはあるかもしれない」

 −−(フリー記者)現地で住民による民主化運動に関して、何らかの情報や見聞きすることはありましたか

 安田さん「民主化運動についてという話は、なかなか聞くのは難しいですね。うーん。そうですね…」

《しばらく記憶をたどるように考え込む》

 「捕まっている囚人の中に子供がいて、尋問の内容を聞いていると(子供は)政府側のスパイとして入ったようでした。他に、障害者も使っているようでした。ふらふらと反対側(反政府側)の地域に入らせて、見て回って帰らせるというようなことをやっています。(同じようなことは)反政府側もやっているんだろうけど、政府側もやっているようだと。子供を使っていたり、2012年にも現地を取材したが、そうしたことに(住民が)反発していてだんだん広まっていったというのが、反政府側に入る人間が多くなった背景ですので」

 「(ずっと施設の)中にいたので話を聞いて回るわけにはいきませんでしたが、周りで空爆があるときは救急車が走っているのが聞こえました。救助活動をしているグループがいて、空爆の被害者を救助するということもありました。以前に来たとき、がれきの中から女性、子供が救われるのを見ましたが、(そうした状況を)経験する中で反体制運動を始めた人がいるというのを2012年以降に現地で見たり聞いたりしました。(拘束されていた施設で)人身売買されたシリア人の人質もいたと言いました。武装勢力にはある意味、権力がありますが、そういった組織によって、(住民が)被害を受けるということも起きているんだなと感じました。民主化運動をしたいという人がいるのは理解できるなと思います」

 −−(朝日新聞)3年4カ月前にシリアに入った際、どのくらいの期間行く予定で、取材のアポイントメントやガイドの手配がどうだったのかなど、準備状況を教えてください

 「20日間前後の予定でした。(アポイントは)相手側と交渉しないと進まないので、事前に全部決めるというのはなかなか難しいですね。そのときの現地の状況にもよりますが。(シリア北西部の)イドリブに2カ所あるイスラム法廷を取材したいとは伝えていました」

「(現地の組織など)彼らにアレンジ、取材相手との交渉などをやってもらって取材するという態勢がよいかな、と考えていました。その結果、交渉が進まなくて取材できなくてもやむを得ないかなと考えていたので、準備というか、ガイドを使って彼らに受け入れられて…、でもそれで自由に動ける訳じゃありません。受け入れてもらえるという態勢をつくったら、ある程度、任さざるを得ません。それが『(準備は)十分なのか』というところでご批判をいただいているところですが、もっとよりよい取材ができればいいなと考えています」

 −−(英BBC)現地で拘束されたとみられる英国のフォトジャーナリスト、ジョン・キャントリーさんの消息については何か聞かれましたか

 「そういった消息は聞きませんでした」

 《予定時刻を1時間半以上超えても、質問を希望する記者はいたが、ここで司会者から会見終了が伝えられた。日本記者クラブでは、会見をした人に一言記帳してもらう慣例があり、最後にあらかじめ安田さんが記していた「あきらめたら試合終了」との言葉が紹介された。これは、井上雄彦氏のスポーツ漫画『スラムダンク』の登場人物のせりふだ》

「あきらめたら試合終了。文字通りで、あきらめたら精神的にも肉体的にも弱ってしまいます。いつかは帰れると考え続けていたので、この言葉を書かせていただきました」

 《拘束中、無事の帰国を信じ続けていたことが心の支えになったことを改めて訴えた。会場から退出するため、会見席を立ち上がると、記者席の一部から「安田さんお帰り、おめでとう」「よく帰ってきた」などの声が上がり、拍手が送られた》