私のような『昭和生まれ』にとっては
忘れようがない方々の訃報が、
ここへ来て、
何か申し合わせたように、立て続けて届きました。
いよいよ『令和』時代が目前へと迫ってきて。
時代の節目に合わせた……という訳でもないのでしょうけど。
いや、
どうなのでしょうかねぇ。
新元号の発表から
これだけ世間で盛り上がっている状況で。
何の影響もなかった、とは考えにくいですし。
私のような『昭和生まれ』にとっては、
どの方も
忘れられないお名前なのですけど。
この先の令和生まれ世代には……
とかとか、
先の事に思いを馳せれば、
色々と胸に去来するものがあったのかも。
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現実は、
たまたま偶然重なっただけなのでしょうけど。
どうしても、
そこに時代の変遷を思わずにはいられません。
これも、
私が年を取った、ためでしょうか。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
アニメ「ルパン三世」の原作者で漫画家のモンキー・パンチさん(本名・加藤一彦=かとう・かずひこ)が11日、肺炎のため死去した。81歳。葬儀・告別式は近親者で行われた。後日、しのぶ会を開く予定。
北海道出身。高校卒業後に上京し、昭和40年に「プレイボーイ入門」で本格デビュー。翌41年、出版社の意向でペンネームを「モンキー・パンチ」とした。
42年、新創刊の漫画誌「週刊漫画アクション」で、「ルパン三世」を連載開始。怪盗の孫で大泥棒のルパンが主人公の同作は、アメリカンコミック調の軽妙なタッチが話題を集めた。46年にはテレビアニメ化。ルパンを中心に、凄腕ガンマンの次元大介、剣の達人・石川五ェ門、美貌の峰不二子という一味と、ルパン逮捕に執念を燃やす銭形警部など、魅力的なキャラクターも子供や女性も含め幅広いファンを獲得。大野雄二さんが作曲した疾走感のあるテーマ曲と相まって国民的人気作となった。
その後もテレビの続編シリーズや宮崎駿監督の「カリオストロの城」(54年)をはじめとした劇場用アニメシリーズが続々と制作された。実写映画や宝塚歌劇団の舞台にもなるなど、世代を越え半世紀以上にわたって親しまれた。
平成7年には声優として長年、ルパン三世を演じた山田康雄さんが死去。ルパン三世のものまねなどで知られた栗田貫一さんが引き継ぎ話題にもなった。
戦前生まれだが早くからパソコンで漫画制作を始め、デジタル漫画の可能性に着目。15年に漫画家仲間とデジタルマンガ協会を設立し、初代会長を務めた。
晩年も向学心は衰えず、60代で東京工科大(東京都)の大学院に入学し、デジタル漫画などについて研究。大手前大(兵庫県西宮市)で教鞭(きょうべん)を執り、漫画執筆の講義を行うなど後進の育成にも努めた。
モンキー・パンチさんは27年の本紙の取材に「(ルパン三世の連載は)当初は3カ月で終わると思った」と述懐。「読んでいる間は、他のことを忘れていかに楽しんでもらえるかだけ考えた」と話していた。
大ヒット漫画「子連れ狼」など数多くの人気作品を手掛けた漫画原作者の小池一夫(こいけ・かずお)さんが17日、肺炎のため死去した。82歳だった。葬儀は親族で営んだ。
小池さんの公式ツイッターで19日発表された。同ツイッターによると、「かねてより入院療養中」だったという。
昭和11年、秋田県生まれ。中央大学法学部卒業後、劇画の魅力にひかれ、漫画家のさいとう・たかをさんのプロダクションへ。初期の「ゴルゴ13」や「影狩り」の原作を担当し、頭角を現した。
独立後、出世作となったのが時代劇画「子連れ狼」=画・小島剛夕(ごうせき)=だった。45年から51年にかけて漫画誌「漫画アクション」(双葉社)に連載され、多くのファンを獲得。幼子の大五郎を連れて諸国をさすらう刺客・拝一刀(おがみいっとう)の復讐譚(ふくしゅうたん)を描いた内容は、映画やテレビで作品化され、幅広い人気を集めた。以後も、「弐十手物語」「傷追い人」「キンゾーの上ってなンボ!!」「クライングフリーマン」などヒットを連発。漫画原作で一時代を築いた。
一方、漫画家育成にも力を入れ、52年に「小池一夫劇画村塾」を設立。塾からは「うる星やつら」の高橋留美子さんや「北斗の拳」の原哲夫さん、ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの堀井雄二さんら数多くの人材を世に出した。大阪芸術大などでも教鞭(きょうべん)をとり、「漫画はキャラクター」の持論のもと、創作法などを指導していた。
小説や脚本なども手掛け、近年はSNSで発信を繰り返しており、さらにファン層を広げていた。
2000年シドニー五輪女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子さん(46)らを育成した元陸上指導者の小出義雄さんが24日、死去した。80歳だった。
小出さんは千葉県出身。順大で箱根駅伝に出場するなどした後、教員を23年間務め、1988年に実業団のリクルートの監督に就任した。
明るく豪快な性格と選手の素質を見抜いて褒めて伸ばす抜群の指導力で、マラソンで有森裕子さん(52)を92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪銅の2大会連続メダルに、積水化学に移籍した97年は世界選手権で鈴木博美さん(50)を金メダルに導いた。
2001年に佐倉アスリート倶楽部(AC)を創設、代表を務めた。04年から選手指導を委託されていたユニバーサルエンターテインメントとの契約が19年3月末で満了したのを機に指導者を勇退。体調面も踏まえての決断で、過去には心臓の手術を受けたこともあり、指導者晩年は入退院を繰り返して現場に出る回数が減っていた。