突然の訃報に驚きました。
この人の場合、
『大往生』と言っても良いのではないでしょうか。
いま、
存命の政治家の中で。
いや、それ以前の人達と比べても。
ここまで長命だった方は、
早々名前が出てきませんよねぇ。
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『戦前生まれ』で。
戦争を直に経験した『戦中世代』……
にとどまらず。
この方、軍人として活動してました。
そこから。
終戦後に一転して、議員生活。
56年間連続20期、
地域の代表、
『顔』として当選し続けたのですから。
並大抵ではありません。
地盤なんて何もない、
一からのスタートで、
これですから。
『永田町の妖怪』とか言われても、
不思議ではないですよねぇ。
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私の印象、というか評価は。
『最後の戦中派』とでも言えましょうか。
今の、
日本の安全保障に繋がる立ち位置、
『基本アメリカ共存を標榜しつつ、
中国と交渉する』
このスタンスを決定したのが、
この方
中曽根元首相の時代、だったと見てます。
その当時は、
まだ『ソ連』が健在で。
日本の仮想主敵、というと。
かの国でしたけど。
福田内閣で1978年に日中平和友好条約が調印、締結されてから。
アメリカを気にしつつ
細々と進めていた日中交流を、人と物の流れとかを。
一気に太い流れにしたのが。
ちょうどこの方の政権下でした。
まあ、
世界の潮流がそういう時期だった。とも言えますけど。
今に続く『円高』の出発点も、
この方の時代の
『プラザ合意』が始まりですし。
文化大革命を終えて立ち上がった中国が、
今に続く経済発展の始まる時期。外交の一大転換点に、
この方の総理就任時期が
ちょうど被った……という具合でしょうか。
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あと内政でも。
今に続く行政改革、
財政健全化の端緒、と言えましょうか。
『国鉄』『タバコ』『電話』の民営化も。
この方の内閣のもとで進められた業績です。
『JR』も『JT』も『NTT』も
この時代に誕生しました。
とか
考えていくと。
今の……
つまり『平成』を通過して『令和』にまで成熟した日本の在り方、
その雛形を作った首相、
と言える、と思います。
まあ、
そのどれもが、
この方だけの功績では無くて。
難題を処理する
優秀な参謀役、他のタレントあっての事ですけども。
そういう人間を見事に使いこなした。
名宰相と言って良いんじゃないですかねぇ。
ただ、
首相の座を降りてからは。
けっこう色々とヤラしかしてたりする、
エピソードがありますけど。
それだけ
『自分はまだまだ誰にも負けん』
という強烈な自負があったのでしょうねぇ。
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安らかにお眠り下さい。
戦後歴代5位の首相在任記録を持つ中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が死去したことが29日、分かった。101歳だった。
大正7年5月27日、群馬県高崎市生まれ。昭和16年に東京帝大卒業後、内務省に入り、戦時中は海軍に勤めた。22年1月に内務省を退職。3カ月後の衆院選に初当選し、連続20期56年間、衆院議員を務めた。
憲法改正を生涯のテーマに掲げ、現行憲法を批判する「憲法改正の歌」を作詞したり、首相公選制の導入を訴えたりした。原子力の平和利用の推進にも尽力し、原子力基本法制定の先頭に立った。
34年、第2次岸信介改造内閣の科学技術庁長官で初入閣し、その後も運輸相や防衛庁長官、通産相、自民党総務会長、幹事長などを歴任。55年、鈴木善幸(ぜんこう)内閣の行政管理庁長官として行政改革の旗振り役を担った。
57年11月、第71代首相に就任し、新保守主義に立脚した政治を展開した。
外交では、鈴木内閣末期に関係が悪化していた韓国と米国を就任直後に相次ぎ訪問し、修復に努めた。特に米国とはロナルド・レーガン大統領(当時)と「ロン・ヤス関係」を構築し、自由主義陣営の一員として日米同盟と反ソ連体制を強化させた。
内政では行政改革を中心とする「戦後政治の総決算」を掲げ、電電公社、専売公社、国鉄の「3公社」の民営化を推進した。在任中にNTTとJTを発足させ、国鉄分割民営化法を成立させた。
60年8月15日、靖国神社を公式参拝した。中国や日本国内の一部メディアの激しい批判を浴び、翌年は参拝を見送った。
政権の当初は党内基盤が弱く、田中角栄元首相の影響が強かったことから「田中曽根内閣」などと皮肉られた。61年、野党の警戒をかわすため衆参同日選を否定し続けながら「死んだふり解散」を断行し、自民党圧勝に導いた。その功績で党総裁の任期が1年延長され、62年11月に竹下登幹事長(同)を後継指名して退陣した。在職日数は1806日。
中選挙区制時代は群馬3区で福田赳夫元首相と戦い、「福中戦争」「上州戦争」といわれた。小選挙区比例代表並立制が導入された平成8年の衆院選からは比例代表北関東ブロック「終身1位」で扱われた。
9年、存命中としては吉田茂、佐藤栄作両元首相に次ぐ戦後3人目となる大勲位菊花大綬章を受章。「私の心の中には国家がある」「政治家は歴史法廷に立つ被告である」などとして「生涯政治家」を掲げ、15年に自民党の定年制問題に絡んで議員を退いた後も、自らが会長を務める公益財団法人「中曽根康弘世界平和研究所」を拠点に政治活動を続けた。22年2月から本紙で「転換への挑戦」を執筆、24年に正論大賞特別賞を受賞した。
昭和42年から46年まで拓殖大総長。このほか、高松宮殿下記念世界文化賞国際顧問、新憲法制定議員同盟会長、NPO法人「富士山を世界遺産にする国民会議」(富士山会議)会長なども務めた。中曽根康隆衆院議員は孫。
この後の日中関係に、何か影響するかなぁ。どうだろう……