kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

そんなぁ……(泣 ―― 俳優の渡哲也さん死去

先月
『石原軍団解散』のニュースが出たときから、
嫌な予感がありました。
もともと、
石原裕次郎』という不世出の大スターが
居たから成り立っていた
石原プロダクション。
その
裕次郎亡き後は、即解散。
の予定
だったのを。
そのまま残してしまって、
大黒柱をうしなった状況で
空中分解してもおかしくなかったのに。
それを
押しとどめて
まとめ上げていた『要石』的な存在だったのが、
この方でしたから。
その方が
『解散』を口にするわけですから。
これは
ただ事では無い、
何かがあるのだろう、
と。
それって、
やっぱり『終活』なのか。
とか。
それでも、
まだまだ
時間はあるだろうなぁ。
と思っていたのですけど……(涙
まさか、
そのまま
アッという間でした(泣



これでまたひとり、
昭和の名優が鬼籍に入ってしまいました。
居るだけで、
場の空気が引き締まるような。
そんな
『貫目』溢れる大スターとして
日本映画界を支えた
最期の一人。
と言っても過言では無い、
と。
私的には
そんな風に
見えていました。
黙して背中で語る系の大物、的な
常に
近寄りがたいオーラを出している、
畏怖すべき存在。
古い言葉で言うのなら
『ダンディズム』の極致を体現した。
芸能界の首領(ドン)。
そんなイメージを発する事が出来るのは、
高倉健』亡き後の日本で、
残っているのは
この方だけだなぁ。
と。
この方が居なくなったら、
日本の俳優は、
貫目の軽い、
庶民になじみやすい
役者しか居なくなるなぁ。
これも
世の流れという物か。

寂しく
思っていたのですけど。
この訃報は、
とても
残念というか。
哀しいです。



お悔やみ申し上げます、。

 

 

 

www.sankei.com

 

俳優の渡哲也さん死去 「西部警察」「くちなしの花」 石原軍団

 刑事、やくざ役などをこなすアクションスターとして知られ、石原裕次郎さん亡き後の「石原軍団」を率いていた俳優で石原プロモーション元社長の渡哲也(わたり・てつや、本名・渡瀬道彦=わたせ・みちひこ)さんが10日、肺炎のため死去した。78歳。14日に家族葬を行った。お別れの会などの予定はない。
 兵庫県淡路町(現淡路市)出身。青山学院大4年のとき日活にスカウトされ、昭和40年、映画「あばれ騎士道」でデビュー。鈴木清順監督の「東京流れ者」、石原裕次郎さんの作品のリメーク作「嵐を呼ぶ男」や「陽のあたる坂道」などでアクションスターとして人気を集めた。
 日活を退社後、46年、石原さんの「石原プロモーション」に入社。48年には歌手として「くちなしの花」を発表し、大ヒットした。
 50年に「仁義の墓場」で仁義も掟(おきて)も踏みにじるやくざを熱演し、大好評を得る。51年の「やくざの墓場・くちなしの花」で、毎日映画コンクール男優演技賞、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞した。
 また、テレビでは49年にNHK大河ドラマ勝海舟」の主役に抜擢(ばってき)されたが、病気で途中降板。石原さんとともにテレビの「大都会」シリーズ(日本テレビ)や、「西部警察」シリーズ(テレビ朝日)などのアクション刑事ドラマで、石原軍団を率いて活躍。
 ボランティア活動にも積極的に取り組み、石原軍団メンバーとともに阪神大震災など災害の被災地を訪れ、炊き出しを行っていた。
 平成3年に直腸がんの手術を受けたが、現場に復帰。27年には急性心筋梗塞で入院、手術を受けていた。17年紫綬褒章、25年旭日小綬章。俳優の故渡瀬恒彦(わたせ・つねひこ)さんは弟。

 

 

 

www3.nhk.or.jp

 

「石原軍団」来年1月で解散へ 渡哲也さんなど所属

昭和の大スター、石原裕次郎さんが設立した芸能事務所「石原プロモーション」が、来年1月に所属する俳優のマネージメント業務などを取りやめることを決め、いわゆる「石原軍団」が解散することになりました。
昭和38年に石原裕次郎さんが設立した「石原プロモーション」は、昭和62年に裕次郎さんが亡くなったあとも業務を続け、渡哲也さんや舘ひろしさんなど「石原軍団」として親しまれている俳優が所属しています。
事務所によりますと、今後について俳優やスタッフで話し合った結果、来年の1月16日をもって業務を縮小し、俳優のマネージメント業務などを取りやめることを決めたということです。
所属する9人の俳優は独立するか、別の事務所に移ることになり、「石原軍団」が解散することになりました。
裕次郎さんの妻の石原まき子さんは会社のホームページで、「『俺が死んだら即会社をたたみなさい』が遺言でした。しかし、俳優さん、スタッフの皆さんがいつも生き生きとされていて、会社に対する愛情の強さがひしひしと感じられ遺言を言い出すことができなくなっておりました」と、これまでのいきさつを説明しました。
そのうえで業務を縮小する理由として、自身の年齢や体力の低下を挙げ、「50数年間にわたり皆様方には陰ひなたなく支えていただき心より感謝申し上げます」とコメントしています。