正直、
訃報を聞かされたとき、
誰のことなのか、
どんな人なのか、
全然判りませんでした。
ただ、
ニュースで
この方の業績……というか、
作曲された曲名が読み上げられるのを聞いて。
そのどれもが、
どこかで聞いたことのある曲ばかり。
とくに
昭和歌謡曲、
その中でも『アイドル歌謡』と言われる曲も
かなりの数を作曲されていたそうで。
その中のいくつかは、
私も
レコードを買ったり。
歌ってみたり。
とかとか
他の作品の
タイトルも調べていくと、
なじみのあるものばかり。
これまで
お名前は存じ上げませんでしたが、
この方の作品は
私の生活の一部、
として。
身近に存在していたのを知って
大変驚きました。
そして、
少し遅れて
そんな方が亡くなられた事実を知り、
二度目のビックリ。
・
・
・
先に
高田賢三さんの訃報に接した時も
同じ具合でしたが、
かつて自分の生活の一部だった物や文化を
提供してくれた方々の
訃報に接するたびに。
時の流れ、というか。
一つの時代の終わり、移り変わり、みたいなものが
問答無用で
目の前に突きつけられるようで。
まったく
面識も無いのに
しんみり寂しくなってしまいます。
こういう事を考える、
ってのは。
やっぱり
それだけ私が年をとった、のですかねぇ。
「また逢う日まで」「魅せられて」「サザエさん」など、日本中で親しまれる数々の名曲を手がけ、昭和の歌謡曲黄金期を支えた作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい、本名・渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)さんが7日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。80歳。葬儀は近親者で行った。喪主は妻、善子(よしこ)さん。
昭和15年、東京都生まれ。大学卒業後、大手レコード会社の日本グラモフォンで勤務。そのかたわら、作曲家のすぎやまこういちさんに師事して作曲や編曲を学び、作曲家としてデビューした。
グループサウンズ(GS)のバンド、ヴィレッジ・シンガーズに提供した「バラ色の雲」(42年)がヒット。その後も人気曲を連発し、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」、南沙織さんの「17才」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」など現在まで親しまれる作品を生み出した。
洋楽を基調にした洗練されたメロディーは高く評価され、尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」、ジュディ・オングさんの「魅せられて」は日本レコード大賞に輝いた。
手がけた作品数は3千曲ともいわれる。郷ひろみさんの「男の子女の子」、近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」、松本伊代さんの「センチメンタル・ジャーニー」、小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」、少年隊の「仮面舞踏会」などアイドルの楽曲も多く、いずれも大ヒットした。「サザエさん」など、小さな子供にも親しまれるアニメ主題歌も手掛け、その音楽ジャンルの幅広さでも知られた。
21世紀に入っても、アイドルグループ、TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」(平成15年)がヒットチャートの1位になるなど存在感を示し、同年に紫綬褒章を受章した。
表舞台に出ることを好まず、メディアにはめったに登場しなかった。希代のヒットメーカーの素顔を知る人は少なく、生涯、職業作曲家の立場を貫いた。近年はパーキンソン病を患っていたという。編曲家、船山基紀(ふなやま・もとき)さんの話「日本の音楽界にとって、大きな方を失った。新しいものを真っ先に取り入れ、人の心をつかむメロディーやサウンドを生み出していた。輸入盤のレコードを独自にいち早く入手して聴いて勉強して、常に最先端を走っていた。(欧米で)ファンクやユーロビートがはやれば、それをヒントにして京平メロディーが生まれていた。全てヒット曲だった」