kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

この書き方はなぁ…… ―― 日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

このネタ、
毎日新聞も取り上げていたのですけど。
どうも
毎日新聞にしても韓国メディアにしても、
記事の表現の仕方というか、説明がいまいちというか。
記事を書いた記者も解説を引き受けた学者も
よく分かってないなぁ……という
印象が拭えません。



まずブックマークを付けた韓国メディアの記事について、
弥生文化について
基にしている認識が一時代前の学説をベースにしている、
というか。
弥生文化の始まりが、紀元前5世紀くらい。
とか
そういう認識で説明されているのですけど。
最新の学説だと、
それよりも
さらに前。
弥生文化が定着したのが、
だいたい紀元前5世紀くらいで。
つまり始まったのは
紀元前5世紀よりももっと前……
数百年は前で
紀元前1000年くらい。
この後、
数百年間は
縄文文化生活様式と、
弥生文化生活様式の混交期というか。
数百年をかけて
縄文人弥生人が混交していった、と。
最新の学説ではそのように考えられています。
なので、
今回
ブックマークを付けた韓国メディアの記事の中で
説明されている、
2500年前~2300年前で
時期的に合致するか、と言えば
合致しませんw
この韓国人の学者さんは
今回発表された学説の内容を
正しく理解出来ていないのかw
それとも
理解した上で
ねじ曲げているのかw
どちらかで、
ロクな学者じゃありませんw



さて
ここで取り上げられている
先日発表された
最新の学説では、
日本の言語の源流についての研究ですが。
その中では
今の日本語に繋がる言語の源流を担う人達は、
遙か昔のモンゴル農耕民、
そして
彼らの言語体系を伝える人達が
日本まで移動してきたのは、
だいたい
今から3000年前……
紀元前1000年くらいと推測していて。
これはおそらく、
最新の弥生文化の勃興期に合わせているのでしょう。
つまり、
朝鮮半島で記録されている干ばつよりも
さらに前の時代になりますw
朝鮮半島で干ばつが起きた時期は
すでに
日本への人の移動は終わっていて。
言語・文化が広まってしまった後の時代ですね。
先に南下した人達が日本に文化を広めていて。
干ばつで朝鮮半島から食い詰めた人達が渡ってくるのは、
その後の出来事になりますw
おそらくは、
干ばつによる南下は、
その時点で
すでに
朝鮮半島よりも
さらに南に人の住める場所がある、という情報が伝わっていて。
つまり
日本の集落と何らかの交易、交流が行われていた状態で、
それで、
日本を目指した、と。
そういう具合だと考えられます。
日本では朝鮮半島からの流民の知識を得て、
弥生文化への発展を始めて。
肥沃な地となりつつあった。
そういう『日本』という豊穣の地が南に存在する事を知り、
食い詰めた朝鮮人
どんどん南下してきて。
それを日本人が受け入れて、
日本各地の発展のスピードが加速した、と。
そういう具合ですよ。




ただ、
私的には
弥生文化の勃興期について
年代を検討する場合、
文化が遺跡などの形を残すほど定着する時間を考えると……
外から流入してきた形式が、
ある程度の量、定着して、
さらに発展、拡散して集団を形成するまでになる時間を考慮に入れると。
私的には
さらにもう数百年、
100年とか200年くらいは時間を遡るのではないかなぁ。

そんな風に考えています。


それと
欧米とか中華とか、朝鮮もそうなのですけど。
大陸的な征服文化の伝統に染まってしまった人たちは、
どうしても
外から支配者が入ってきて原住民を征服し
文化を塗り替えていく。
そういう切り口で語りがちなのですが。
これは
原住民を征服して、抹殺し、移民する場合とか、
ヨーロッパ人がアメリカを征服した事例とかが
これになりますけど。
これは
世界史的に見ると
かなり稀な形式で。
たいていの場合、
原住民の文化に影響を与えつつも、
やはり
ご当地の文化が残るのです。
外から入ってきた人達は
現地の文化と混交してローカライズされ、
新しい形になって根付いていく。
そんな具合になります。
身近な例を挙げると、
中国が……漢民族が、
モンゴル系の遊牧民族に何度も征服され
支配を受けながらも。
中国を征服した遊牧民が、
漢民族の文化に感化されて融合した
新しい形の文明、社会様式を築いている、
そんな具合ですね。
朝鮮半島とかも、このパターンですよw
もっと
日本人に分かりやすい
身近な例を挙げると、
中国から『漢字』を伝えた人達がいて。
日本に『文字』が入ってきました。
でも
日本で漢字を中国語のまま使わず、
それまであった日本語=万葉仮名に漢字を当てはめて、
日本的にローカライズして広めていきました。
そして
結果的に
平仮名、片仮名を日本で作り上げて、
全部合わせて、
『日本語』の文字が出来上がったわけです。
外から入ってきた人達が文化を作り替えていく、ってのは『幻想』ですw
現地に影響を与えて、
ローカライズされた外の文化が
現地文化の一部となって新しい文明へと発展していく。というのが、
実際的な見方になります。

 

 

mainichi.jp

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

 日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
 日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。
 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。

 

 

 

 

japanese.joins.com

「日本の弥生文化韓半島が本流…干ばつ難民が移動して作った」

韓国で出版された『気候の力』(原題)は気候と歴史を組み合わせる試みで、韓国内の研究結果に基づいて気候変化が韓国史に及ぼした影響に迫った点でその意味が明確な本だ。著者であるソウル大学地理学科のパク・ジョンジェ教授は、高麗の滅亡や17世紀の大規模飢謹などの事件を自身の研究データに基づいて気候変化と関連させて説明している。地球温暖化が世界的な課題として注目されている今、過去の気候と歴史から何が学べるかをパク教授に聞いてみた。


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日本の弥生文化を築いたのが韓半島朝鮮半島)から渡来した気候難民だと書いている。
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突然の気候変化の衝撃で韓半島の農耕民が南に移住し、その一部は日本に渡って行ったという仮設だ。3000年前、錦江(クムガン)の中・下流に松菊里(ソングンニ)文化があった。青銅器時代に米作りをしていた人々だ。ところが2800~2700年前、韓半島にひどい干ばつが発生した。この時期に堆積した花粉の中で木の花粉の比率が顕著に低いが、これは干ばつで木の花粉の生産性が非常に良くなかったことを意味している。興味深いのは、この時期に住居地の数も大幅に減少した点だ。稲作ができそうなところを探してさまよっていたということだ。その後、松菊里文化は韓半島南部を経て日本に渡って行ったと考えられる。稲作は温暖で湿潤な九州地域のほうがずっとやりやすかったはずだ。弥生文化は2500~2300年に始まったといわれているが、時期的にも合致する。私がこの時期の気候問題に対する論文を2019年に出したが、偶然に中国でも3カ月後に同じような論文が発表された。

□□
中国も同じようなことがあったのか。

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 この時期の干ばつは『2.8ka(killo annum・千年。すなわち2800年前)イベント』と呼ばれる世界的な現象だ。当時米作りをしていた中国遼東居住民が韓半島に南下してきたが、松菊里の住民たちも日本に移動するというドミノ現象が起きた。おそらく韓半島初めての気候難民ではないかと考えられる。初めて見る移住民との葛藤、環境破壊、食糧不足などは、そうでなくても気候変化で困難と戦っていた韓半島に大きな衝撃を与えた。稲作で人口が急増したため状況はさらに深刻化した。現在もしっかり振り返ってみるべき歴史だ。

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高麗と朝鮮の交代、17世紀の庚辛(ギョンシン)大飢饉も気候変動が背景の一つだと説明した。

■■
データを見れば高麗・朝鮮交代期には気候が良くなかったのは確かだ。中世の温暖期に属していたが乾燥していた。通常は温暖なら湿潤だと考えるが、この時期はそうではなかった。干ばつで作物状況が良くなく、飢謹につながって民心が極度に悪化していたと思われる。17世紀の庚辛大飢饉時は反対に低温湿潤だった。太陽の黒点が少ない時期だったが、春に温度が低く夏・秋には雨が多く降った。やはり農作業には不利な気候だ。反面、英祖(ヨンジョ)と正祖(チョンジョ)が執権していた時期は太陽の黒点が多かった時期だが、気候が良好だった可能性が高い。英・正祖時代が高い評価を受けるのは気候の恩恵を受けた可能性もある。


これまで国内では高気候関連の資料が乏しく、韓国史と連係させるために多くの困難があった。パク教授は済州島(チェジュド)のハノン(畑として利用される噴火口)、ムルヨンアリオルムなどから堆積物を確保して研究してきた。「人跡が少なかったので、高気候関連のデータを得るのに適している」と述べた。