kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

肩すかしだった…… ―― 被爆77年「広島原爆の日」核兵器のない世界の実現へ祈り続く

タイトルに書いたのは、
私的な印象を
率直に一語でまとめてみました、
その答えです。



岸田首相が新たなアクションを起こすとか、
事前情報で
アレコレ流れてたので。
ちょっと
期待していたのですけど。
蓋を開けてみたら
まあ、
例年通りで。
目新しい事というと、
久しぶりに
国連事務総長
現地入りして演説しました。
って、
くらいでしたね。
あと、
ロシアのウクライナ侵略戦争が現在進行中のため、
リアルな戦争における
核兵器使用の恐怖を
メディアがあおっていた、というか
強調していたのも
印象的でした。
ただ、
核兵器の使用も否定しないロシアの姿勢については、
全く言及せず。
核兵器廃絶に消極的な
日米政府の姿勢を批判する、
という。
ロシアの核兵器は良い核兵器使用で、
日米の格の傘は悪魔の所業、
とかいう。
メディアの中で活躍している
特定の人たちの態度、
発言の意図が
意味不明だったり。
メディアが取り上げる内容がグダグダなので、
理解不能
カルト的思想を拡散するための道具にされるだけ
みたいだから、
もう
取り上げる必要無いだろ、
と思ったり。

 

 

www3.nhk.or.jp

 

被爆77年「広島原爆の日核兵器のない世界の実現へ祈り続く

 広島に原爆が投下されて、8月6日で77年となりました。
 ロシアの軍事侵攻により、核の脅威に対する危機感が広がるなか、被爆地・広島では、犠牲者を追悼し、核兵器のない世界の実現を国内外に訴える1日が続いています。
 広島市平和公園で行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、岸田総理大臣のほか、99の国の代表が参列しました。
 ことしは、3年ぶりに一般の参列者席が設けられ、新型コロナウイルスの影響で規模を大幅に縮小した去年とおととしの3倍以上となる2854人が参列しました。
 式典では、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、合わせて4978人の名前が書き加えられた33万3907人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげました。
 ロシアのウクライナへの軍事侵攻と核による威嚇を受けて、世界各地では軍備を増強する動きが広がっています。

広島 松井市長 “為政者は核兵器使用の結末を直視すべき” 
 広島市の松井市長は、平和宣言で「世界中で、核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増している」と指摘しました。
 そして、核保有国の為政者に対し、被爆地を訪れ、核兵器を使用した際の結末を直視すべきだとして、「国民の生命と財産を守るためには、核兵器を無くすこと以外に根本的な解決策は見いだせないことを確信していただきたい」と述べました。

岸田首相「核兵器のない世界への道のり歩んでいく」 

 また、岸田総理大臣は、「いかに細く、険しく、難しかろうとも『核兵器のない世界』への道のりを歩んでいく。非核三原則を堅持しつつ、『厳しい安全保障環境』という『現実』を『核兵器のない世界』という『理想』に結び付ける努力を行っていく」と述べました。

国連 グテーレス事務総長「世界は決して忘れてはならない」 
 そして、国連のグテーレス事務総長が「世界は広島で起きたことを決して忘れてはならない。被爆者が残した遺産は決して消滅しない」と述べ、国際社会に対して核廃絶に向けた取り組みを改めて呼びかけました。
被爆者の女性「最期まであの日のことを伝えないといけない」
式典に参列した被爆者の女性は「当時のことを伝え続けないと、いつ平和がなくなるか分かりません。私は95歳で死との闘いですが、最期まであの日のことを伝えないといけない」と話していました。

娘と孫と3世代で祈り 76歳女性「平和の大切さを孫に伝えたい」 
 両親が被爆したという広島市安佐南区の76歳の女性は、娘と孫とともに、午前8時15分、原爆ドームに向かって手を合わせ祈りをささげていました。
 女性は「毎日、午前8時15分に祈りをささげています。ことしは式典に参加できませんでしたが亡くなった人をしのぶため、会場の近くまで来ました。当たり前に平和な生活ができることの大切さを孫に伝えていきたいです」と話していました。
 娘の48歳の女性は「8月6日に広島で亡くなった人は、やりたいことができなくて亡くなったと思います。その人たちの思いを伝えていきたいです」と話していました。
 また、15歳の中学生の孫は「戦争で悲しむ人がいるのに、世界では、まだ戦争が起きていて、悲しいです。同じことを繰り返さないためにも、伝えつづけていきたいです」と話していました。