kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

一言物申す…… ―― 甲子園で仙台育英、下関国際を下し初V

えーと、
この件について
仙台育英の健闘にケチを付けるつもりは
ありませんが、
元道民として
メディアがやたらと喧伝している『白河越え』については
納得いかない点があるので、
一言言わせてもらいます。



甲子園優勝旗の白河越えは
今回
仙台育英が優勝する10年以上も前に
すでに果たされていて。
2004年に
駒大苫小牧高校の優勝によって、
白河関を越え、
さらに
津軽海峡も越えて
北海道へ渡っています。
なので、
東北勢悲願は
正しくは
『東北勢初優勝』であって
『初めて白河の関越え』の事実はありません。



ただまぁ、
長い間慣習的に
そう呼ばれていた過去があるのは確かです。
でも
現地では、
北海道に先を越された事実があるので、
今では
『東北勢初優勝』を指し示す意味では使っていなかったはずです。
というのも
2001年に
仙台育英高校
春の選抜甲子園大会で準優勝して、
それで
いよいよ『白河の関越え』『東北勢初優勝』も間近か、
と思っていたら。
その後、
成績がパッせず、
2004年に
田中将大を有する駒大苫小牧高校が
一足先に
夏の甲子園大会で優勝してしまいましたので。
当時の東北勢、高校野球関係者は
大きなショックを受けていました。
なにせ、
行政区分の地方というか、
高校野球の地方大会区分で、
その当時
優勝経験がない地方は
東北と北海道だけでしたから。
どちらか先に優勝校を出すか、で
激しく争っていました。
そして、
先を越せると思っていたところで、
抜かされてしまったわけですから。



なので、
東北勢にとって
白河の関越え』は
長年の宿願を表した言葉であるのと
同時に。
苦い記憶を呼び覚ます、
屈辱の過去を記した言葉でアリ、
諸手を叩いて喜べる表現ではないのです。
当時の
悔しさをバネに奮起して宿願を果たすことを誓った
そういう
言葉なんですよ。
まあ、
あれから既に10年以上が経過しているので、
今の
現役高校球児とか関係者には
そういう記憶はないのかもしれませんけどね。
しかしながら、
白河の関越え』については
単に
東北勢が初優勝を果たして良かったね、
と。
そんな風に
簡単に祝福の言葉として喜べる話ではないのです。
簡単に祝福の言葉として喜べる話ではないのです。
『悲願』という中に、
やり残した過去を
ようやく取り戻せた、という
そういうニュアンスを含んでいるんですよね。

 

 

 

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甲子園で仙台育英、下関国際を下し初V…悲願だった優勝旗の「白河の関越え」果たす

 全国高校野球選手権大会第14日は22日、兵庫県西宮市の甲子園球場で決勝が行われ、仙台育英(宮城)が8―1で下関国際(山口)を破り、3度目の決勝進出で初優勝を飾った。東北勢としても夏の甲子園10度目の決勝で春夏を通じて初めて制し、東北勢悲願の深紅の優勝旗の「白河の関越え」を果たした。

 

 

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育英歴史作った 投打隙なし初優勝

 全国高校野球選手権大会第14日の22日、仙台育英は決勝戦で下関国際(山口)に8―1で快勝し、初優勝を飾るとともに東北勢として初の栄冠に輝いた。自慢の投手力だけでなく、打線も勝負強さを発揮し、七回には岩崎生弥選手が満塁本塁打。歴史を塗り替えたナインはゲームセットの瞬間、マウンドに集まり、感激に浸った。

仙台育英OBら ねぎらいの声

▽決勝戦
下関国際 000001000―1
仙台育英 00012050X―8

4回1死3塁で先制の適時打を放つ斎藤陽選手(兵庫県西宮市の甲子園球場で)=永井秀典撮影
 両チーム無得点で迎えた四回、「つなぎの4番」の一打が均衡を破った。一死三塁で左打席に入った2年生の斎藤 陽ひなた 選手。ベンチの須江航監督からは「積極的に振っていけ」とジェスチャー交じりで指示が出ていた。
 初球、内寄りに甘く入った直球を見逃さず、思い切り引っ張った。「抜けろ」。一、二塁間を破る先制適時打となり、一塁上で拳を突き上げた。
 昨夏の宮城大会4回戦。1点を追う九回、右飛に倒れて最後の打者になり、先輩たちの夏を終わらせてしまった。悔しさを引きずっていた時、当時の3年生から「(負けたのは)お前のせいじゃない」と言われ、その言葉を支えに甲子園を目指してきた。
 今大会は4番を任されても「自分はつなぎ役。長打は打てないが、ここぞという場面で1本打てれば」との意識で4打点を挙げ、チームの躍進に貢献。決勝では、最初の打席で相手の左腕エースに一塁ゴロに打ち取られたが、佐藤悠斗主将の「硬いぞ。笑え」の一言でリラックスできた。
 九回、最後の打者をアウトにするまで「日本一になれるなんて思っていなかった」という。優勝を決めた後、ベンチの前で先輩たちと抱き合い、うれしさとともに責任感がこみ上げてきた。
 「すばらしい結果で終わることができた。この経験を自分たちの代でも生かさないといけない」。来年も後輩たちを引っ張り、深紅の優勝旗を持って「白河の関」を越えると決意している。