先々週、
2月2日に高裁判決が出て。
日本への返還が決定し。
先週、
2月10日に
韓国の寺院が判決内容を不服として
上告したので、
またも
日本への返還が宙に浮いてしまった
対馬から盗まれた仏像。
・
・
・
さあ、
今週は
韓国で
日本返還ムーブ反対祭りだ、
とはならず。
韓国メディアとかネットを覗いていても。
この
盗難仏像の裁判に関する話題が韓国内で盛り上がらない、というか。
他の
反日闘争的な裁判案件と比べて
とりわけ注目度が低くて韓国民の関心が薄い、
というか。
今回、
韓国の革新系メディア・ハンギョレが
燃料となりそうなニュース解説記事を投下していたので。
ブックマークを付けてみたのですが。
韓国メディアの反応を覗いてみても、
まあ、
寒い寒いw
メディアが
ちょくちょく燃料を投下しても、
反応しませんw
投下したその場で鎮火していく感じですw
・
・
・
でまあ、
どうしてそうなるのか、
私的に
2週間近く覗き続けている中で
なんとなく分かってきまして。
これ、
韓国民にとっては丸っきりの『他人事』なんですよね。
前政権、
狂気の文オジサンとそのお仲間達政権の時代だと、
裁判結果に政府が口先介入的なコメントを出したりして。
『日本』対『韓国』みたいな
反日図式を演じて煽ったので。
韓国民も
それに乗っかって反日ムーブの大騒ぎだったのですけど。
そういう
政治家の介入が無くなってしまうと、
裁判自体は
『日本の寺』対『韓国の寺』という図式で。
戦う相手は
日本政府、日本国民ではありません。
表から見ている限りでは、
裁判に
日本政府は全く関与してしませんし。
日本国内で
日本国民の関心も高くないですし。
日本が
『国』として関わっていないんですよ。
・
・
・
その上、
裁判に勝って韓国側の寺院が仏像の所有権を取得した、
としても。
利を得るのは韓国の寺院であって。
韓国政府や韓国民には何も還元されません。
つまり
韓国民にとっては、
この裁判で勝とうが一文の得にもならない。
負けても損にならない。
寺院以外の韓国民にとっては
裁判にかかわっても
得られる物は何もなく。
手間暇を費やせば費やした分だけ
損になります。
というわけで、
大多数の韓国民に
手間暇金を掛けて踊るアホウは居なかった。
だから
この話題、
韓国で
盛り上がっていかないですねぇw
対馬から盗んで韓国に持ち込んだ高麗仏像、返還すべきか
今年で693歳になったこの仏像は、実に険しい時代に生まれた。
倭寇の略奪行為と権勢家らの搾取行為が猛威を振るった時代だ。百姓たちは生き延びるのも厳しかった。農業をしていた土地を捨て、誰もが流浪民になった。後代の歴史家たちが麗末(高麗時代末期)と呼ぶ14世紀中後半、高麗王朝末期の朝鮮半島海岸地域は倭寇の蠢きによって無法地帯と化していた。しかし、人々は大同世上(すべての人が共に平等に生きる世界)への希望を失わなかった。仏の恩徳で平和、平等、充足した世の中を求め、共同体信仰に頼って乱世に耐えた。
1330年、高麗国忠清道瑞州(ソジュ、現在の瑞山)の地の古い寺である浮石寺で生まれた美しい金銅観音菩薩坐像は、このような願いが込められた民衆の大役事であった。僧侶や信徒らはもちろん、下層民まで一丸となって戦乱のない世の中と来世の極楽往生を共にしようと願って作られた。はるかに時間が流れ、1951年に仏像本体の中(腹蔵)から発見された浮石寺観音像の制作結縁文の発願者名簿を見ると、シムヘ、ヘチョンなどの僧侶たちや、キム・ヨン、キム・ドン、トリといった身分の明らかでない当時の平凡な人々の名が見受けられる。彼らはこう書いた。「衆生をこの世の苦痛から救うために、縁のある人々が共に発願してこの仏像を作りました。永遠に充足した供養で現世の福を祈り、来世は共に極楽に生まれることを願っています」
歴史の奇妙な計らいだろうか。高潔な人間愛を込めた高麗人の仏像は、現在、韓国と日本で絶えず議論を呼ぶパンドラの箱に成り替わってしまった。2012年10月、韓国の窃盗団が対馬の観音寺に16世紀から奉安されていた仏像を盗み出したのが禍根だった。彼らは仏像を韓国に密搬入して売ろうとしたが、翌年1月に摘発され押収された。14~16世紀に日本に流れたものと推定される仏像は、髷を結い、元は宝冠をかぶっていたものとみられる。穏やかな微笑みとはっきりとした目鼻立ちを含め、細部の彫刻まで作りが際立つ高麗後期仏像の傑作で、早くから国内の仏教美術史学界で注目された秀作だ。焼けた跡があり宝冠もなくなり、日本への搬入過程で相当な紆余曲折を経たことが推察される。
仏像が長崎県の指定文化財であるうえ、盗品であるだけに、摘発当時は返還が当然と思われた。駐韓日本大使館が文化財庁に返還を要請し、文化財庁も不法流出文化財の返還を規定した国際協約などによって返還の立場を示した。しかし、瑞山浮石寺の僧侶・信徒たちと仏教界などが「還収委」を結成し、この仏像が14世紀に倭寇によって略奪されたと主張し、議論を呼んだ。2013年2月末、大田地裁は浮石寺側が国家を相手取って提起した占有移転禁止仮処分申立てを受け入れ、3年間返還を猶予する仮処分決定を下した。猶予期間が終わった直後の2016年には、浮石寺側が再び仏像引渡し請求訴訟を起こし、所有権攻防を中心に議論が紛糾した。2017年の浮石寺側に所有権があるという大田地裁の一審判決に続き、今月1日には所有権が日本の観音寺にあるという大田高裁の二審判決が出た。二転三転する様相になると、韓国・日本政府と両国の寺の間の神経戦もさらに熱くなった。 歴史的に浮石寺に仏像が奉安された14世紀前半は、西海側一帯で倭寇の略奪が猛威を振るい、高麗の首都・開京(ケギョン)の寺院も被害を受けた。しかし残念ながら、議論の的となった仏像が強奪されたかどうかを立証する証拠は残っていない。約600年前の流出の経緯を示す記録物や根拠は見つかっていない。観音寺の「沿革略史」に載っている、1526年に仏像が寺にあったという記録だけが伝わっている。したがって、この仏像は14~15世紀にある経緯で日本に流出し、長い間さまよった末に観音寺に渡ったか、16世紀に直接渡った可能性がある。倭寇の侵奪の歴史からみて、略奪された可能性が高いという専門家の調査報告書もすでに出ている。もちろん高麗末期、朝鮮初期に日本に仏経や仏具を贈る慣行もあったので、善意で渡したり売ったりした可能性も排除できない。略奪の情況は濃いが、決定的な物証がないだけに、断定することもできないというのが学界専門家たちの主な見解だ。
確かに盗品なので返すのが道理にかなっている。だが、日本に莫大な文化財略奪を受けてきた韓国人の立場としては、略奪の心証がある名品を渡すことが気持ちとしては容認できない面が明らかにある。高裁も今回の判決で浮石寺側の引渡し請求を棄却し、これとは別に「政府が文化財保護のための国際法的理念と文化財還収に関する協約などの趣旨を考慮し、仏像の返還問題を扱う必要がある」と明らかにした。結局、両国政府と文化財専門家、宗教家たちが私心のない対話を通じて、仏像を発願した高麗人たちの縁と共生の心を生かす解決策を模索するしかない。