kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

「いじめ」について、もう少し書いておきたいこと――「いじめ」が子供社会特有の問題であるような大人の接し方が子供を追い詰めていることを、認識するべき

さて、いじめについて、あれこれと書いてきたので。
もう一つだけ常々思っていることを書いておきます。
今回の大津市のような典型的な「いじめ」事件が発生すると、
教育事情の問題として焦点をあてたり、子供社会の問題として焦点をあてたり、親子関係の問題として焦点をあてたりしますけど。
いい加減、こういう問題の本質から目をそらしてしまう取り扱い方はやめるべきです。
「いじめ」というのは、人間が社会生活を営む上で発生する個人と個人の衝突、軋轢であって、子供社会特有の問題ではない、
そのことを前提に話を進めるべきです。
大人の社会にだって「いじめ」は存在します。
「セクハラ」「パワハラ」とか「ハラスメント」という片仮名言葉を使って表現していますが、内容は「いじめ」そのものです。
また、こんな法律用語になってしまった事例でなくても、近所づきあいで陰口をたたかれたりしますし、ゴミ当番で不当な扱いを受けたりしますし、
生活の中の様々な場面で他者との軋轢に遭遇しています。
このとき、力関係が対等であるなら問題ではありませんが、
力関係が、強者と弱者に固定され、強者から弱者へのいっぽうてきな攻撃となると、「いじめ」となるわけです。
大人だって日々「いじめ」に遭いながら、生活しているのです。
いじめとは、人間が生活していく上で、今のところを根絶することができていない問題なのです。
そのことを、大人も子供も共通の認識として、そこから「いじめ」問題を考えるべきです。
大人は、仕事をする中で嫌な思い、辛い思いをしている、近所づきあいで悔しいことがある、泣きたいことがある、
その我が身を子供に置き換えて考えるべきです。
そして、大事なのは、子供にそういう大人の真実の姿を伝えることです。
いま、「いじめ」事件で子供が自殺してしまう、自殺へ子供を追い詰めている原因の一つに、
子供が「大人はわかってくれない」と思っている事実、
「いじめ」は子供の世界に特有の問題であって、大人には理解できない、と考えていること、があると思います。
大人=親と感情を共有することができない、と思っているから、家庭の中で孤立してしまうのです。
友達には話せても、親には話せないのです。
そして、
親も「いじめ」が自分の生活とは別世界の出来事のような認識で「いじめ」を捉えるので、
子供の心が見えないし、子供社会が理解できないわけです。どのように対処したらいいのか、わからなくなるわけです。
子供の「いじめ」問題を、大人社会には存在しない特殊な事件として、そのような取り扱いかたをしているから、
現実に何が起きているのか、わからなくなるわけです。
「いじめ」という言葉を使っている現状が、大人と子供、親子の関係を断絶させてしまっているのです。
「昔は、こんないじめはなかった」と、よく出ますが、
昔は、暴力が加われば、暴行事件として、
金が取られれば、恐喝事件として、
たとえば、1970年代のマスコミは「校内暴力激化」などとして、「いじめ」という言葉は使っていませんでした。
大人社会でもあり得る問題が、子供社会の中で起こっている、という共通の認識の中で、どうするべきか、と、知恵を絞っていたのです。
昔と今の大きな違いが、そこにあるのです。
いい加減、そのことに気がついて、「いじめ」問題について特別視することを改めるべきです。
「いじめ」を社会から切り離して、特別視していることが、
「いじめ」の問題を有耶無耶して解決を困難していることを、はっきりと意識して、認識を改めるべきです。
追記:
言葉狩りを支持するわけではありませんが、私は、
「いじめ」という言葉を使用することを禁止するべきだと思います。
とくに教育の世界においては、「いじめ」は問題のすり替え、矮小化に使われてしまっている、と思えますので。
報告書に「いじめ」と記載することを禁止するだけで、
簡単ですけど、効果的な改革が期待できると思います。
――別の言葉にすり替わっただけで終わったら意味がないんですけどね。