kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

コメ返し ―― 「実写版リトル・マーメイド」日本人が批判のなぜ

ブックマークに付けた
コメントに
はてなスターをいただいたので。
それのお礼もかねて、
コメントの補足記事を
書いてみました。



結局、
この件の何が問題なのか、
というと。
エンタメの本筋から外れた価値観を作品に
持ち込んだから炎上しただけ、
の話なんですよね。
それを、
企画側と今回の企画を支持したい人たちが
自らの失敗を認めたくないから、
ひたすら
彼らの『正論』を振りかざして。
支持しない人、批判する人たちに
『差別主義者』というレッテルを貼り
批判を封じ込めようとしている、
という。
そんなお粗末な内容です。この件は。



問題点は明らかで、
ブックマークを付けた記事の冒頭にも
書かれているとおり。
原作のイメージを破壊して
新たなキャストを抜擢した点について。
原作を改編した合理的な理由を
企画製作陣が
旧来のファンに対して
納得出来る理由、作品の魅力を提示できなかった。
これにつきます。



それなら
どうして
作品の当事者とも言える
製作陣の本国では問題にならずに。
何とすれば
本国では
大絶賛された改変が、
遠く離れたアジア圏などで炎上するのか。
と言えば、
これは
アジア圏にいる観客は
製作陣本国が抱える政治背景や諸処の社会問題から切り離されて。
純粋に作品の価値だけを見ているからです。
実は、
今回のような反発は
アジア圏の社会文化が
欧米と異なり特殊ではなくて。
別のコンテンツでは
立場を変えて
欧米でも似たような炎上、反発を起こしています。
私が知る例を挙げると
『着物(和服)』です。
日本の着物について。
日本人は
日本の着物を外国人が気軽に着用する事について、
とくに
問題視しません。
けど、
欧米人は、
日本人以外の人が着物を着て見せびらかすのに対して、
強い
嫌悪感を示しました。
日本人的には
先細りしつつある『着物(和服)』という文化が
日本の外に出て諸外国に拡がっている状況に
喜びを感じることはあれど、
それを批判したり、否定したり、
そのような感情は持ちませんでした。
しかし、
日本以外の国の人は、
『着物(和服)』とは
日本の伝統、歴史的文化的な背景があってこその
服装だと見なしていて。
それらを無視して
外国人が手軽に来て見せびらかすべきようなものではない。
たとえば、
仮装感覚で着てみる、とか。
そんなのはとんでもないことだ。
と、
SNSに写真を投稿する着物姿の外国人に対して、
日本文化を剽窃する行為だ、と強い批判の声が出て
一時期、
騒動になったりしましたよ。
いや、
いまでもそういう炎上の種は、
いたるところで見かけます。



つまり、
当事者から離れた場所に居る人にとっては、
当事者が抱えている問題とは切り離されて
その作品が持っている魅力、価値のみを
純粋に見ている、というか……
離れた場所から見える、
魅力、価値によって作品を判断しているので。
当事者とは異なる判定を下すのも
珍しいことではありません。
これは
洋の東西を問わず、
世界中のいつどこにおいても起きえる
ありふれた出来事なのです。
簡単に言ってしまうと、
制作現場の待遇を改善したから
作品の内容を褒めてくれ、
と言われても。
それは評価が別だろう、というシンプルな話です。
そういう
普遍的な事実を無視して、
当事者の理屈を押しつけようとしている時点で、
今回の作品は
世界展開に失敗するでしょうね。



ひょっとすると、
今回の一件は、
内向きにこもってしまって
世界の現実が見えなくなっている
アメリカの今を
象徴している出来事なのかもしれませんね。

 

 

toyokeizai.net

 

「実写版リトル・マーメイド」日本人が批判のなぜ

「黒人差別とかじゃなくてアリエルはアリエルっぽい人にやってほしい」「アニメで親しんだアリエルのビジュアルが完全に無視されて悲しい」「アジア人でも黒人でも白人でも、誰だってアリエルになれるでしょ」――。
 9月9日、アメリカのウォルト・ディズニーが公開した実写版『リトル・マーメイド』の予告編をめぐって海外のみならず、日本でも議論が巻き起こっている。
 この予告編では、アリエル役のハリー・ベイリーがバラード曲 「パート・オブ・ユア・ワールド(Part of Your World)」 を歌っているが、この映像を見た人から「白人」の役を黒人女性が演じることに対するさまざまな反応がネット上で繰り広げられているのだ。

「明らかにポリ・コレを狙った配役」
 ハリウッドが『Ghost in the Shell攻殻機動隊)』の実写版で日本人サイボーグの主人公、草薙素子を白人女性のスカーレット・ヨハンソンが演じることが決まった際、「ホワイトウォッシング」であるという非難を中心に論争が起こった。
 今回は、黒人女性がアリエル役を演じることについて、「これは明らかにポリティカル・コレクトネス」「キャストの多様化のために選ばれた」という批判の声が上がっている(ディズニー側がこの映画の実写化にあたって、優れた歌唱力を持つ女優を選んだ、としているにもかかわらず)。
 批判は今に始まったことではない。2019年世界中で愛されるアリエルの役をベイリーが演じることが発表されて以来、彼女は世界中で巻き起こる匿名の投稿者による、そしてしばしば人種差別的なネット上の「荒らし」による毒に対処してきた。
 彼女は非常に才能のある女優であり、歌手でもある。人気テレビ番組『グロウニッシュ(Grown-ish)』のレギュラーとして活躍し、姉と人気音楽デュオ『Chloe x Halle』を結成し、歌手としても活動している。
 しかし、ベイリーの演技力と圧倒的な歌唱力にもかかわらず、アリエル役に起用されたことで、多くの人が怒り、困惑している。中には黒人が白人の人魚姫を演じることはあり得ないと訴える人もいる(人魚は実在しないし、人間でもないので、彼女の人種は関係ないはずだが)。

なぜ白人のアリエルがいいのか考えてみてほしい
 日本でも予告編に対してさまざまな反応が出ている。そして、今回のディズニーの選択に対する、日本での反応に一通り目を通して、私は心を痛めている。白人ではなく、黒人がアリエルに選ばれたことを批判しながら、その考え方は人種差別ではない、と信じている人が多くいるからだ。
 白人のアリエルを好むこと、アニメ版のアリエルと同様のルックスを求めることは必ずしも人種差別ではないと、私は考えている。しかし、白人のアリエルを好む日本人の1人ひとりが、その好みに潜む意味を考える必要がある。アリエルが黒人であること、もしくは白人でないことに関して、自分が問題のある思想を持っていることに気付くかもしれない。
 映画を楽しむには――特にディズニー映画にありがちなファンタジー映画を楽しむには――かなり懐疑心を抑えなくてはならない。いったん懐疑心をなくせば、物語に入り込むことができる。登場人物への関心も高まり、より満足のいく経験が得られる。そのために映画は、ファンタジー要素と、受け入れやすい要素のバランスを適切に保たなければいけない。
 例えば、ハリウッド映画の中の王族の肌の色はほぼ限定されている。通常は1種類だけ、つまり、白人だけだ。そのため、私たちはハリウッド映画の王族にはヨーロッパの上流階級の人々を期待するようになっている。
 こうした中で、黒人やアジア人の女性を「プリンセス」として受け入れるのには(シンデレラ、眠れる森の美女、その他の多くのプリンセス映画のおかげで)、私たちはいつも以上に懐疑心を捨てなければならない。白人ではないプリンセスを見るのは、ハリウッドでは非常にめずらしいため、不自然に感じられるからだ。
 そういう理由で白人のアリエルを好むのであれば、それはまったく人種差別ではないと、私は思う。しかし、あまりに多くの役柄に白人の登場人物しか見られないのは、ハリウッドによるステレオタイプ化の結果なのだ(とはいえ、これはまた別の話である)。
 しかし、例えば、映画で黒人をみると気分が悪くなったり、不愉快に感じたり、黒人女性に魅力がないとか、皆に愛される人魚姫の役にはふさわしくないなどと思ったり、あるいは、黒人といえば、都会的なものや"アフリカ的"お祭り騒ぎなどしか連想できず、王室やバレエやオペラといった”伝統的”とみなされるものとは結びつけられない、という理由によって白人のアリエルの方を好むというのならば、それは、問題のある考え方に傾いていると憂慮する。人種差別的でもあるだろう。

アジアの観客は人種差別的?
 残念ながら、アジアにおいて黒人はあまりいい印象ではない。その事実を、映画産業は痛感している。ソニー・ピクチャーズの役員から流出したメールには、ある役員が、別の役員に対して「海外の観客は人種差別主義的だと思う。というのも、一般的に、アフリカ系アメリカ人が主役の映画は、海外ではあまり好況ではない」と書いている。
 これは、アカデミー賞を2回受賞したデンゼル・ワシントンについて書かれたものだ。つまり、ハリウッドを代表する素晴らしい俳優であるワシントンでさえ認められないのだから、ベイリーが非常に否定的な反応を受けるのは驚きではない。
 海外市場が、国内映画市場と同等か、それ以上の収益をもたらすこともあるハリウッドでは、当然、顧客を満足させるために必要なことをする。アジアの映画ファンが、不愉快な気分にならないように、黒人の顔を小さくしたり、まったく消してしまうという、アジア版のポスターすらあるのが現実だ。
 どうあれディズニーは多様性を許容することを決めたに違いない。2017年当時、ディズニーは日系アメリカ人俳優、ダイアナ・ヒューイを採用し、ミュージカル『リトル・マーメイド』のアリエル役として据え、全米ツアーを行った。
 彼女のパフォーマンスは素晴らしい評価を得て、ヒューイは 「これまでで最も層が厚く、素直で、リアルで、なおかつ愛らしいディズニー・プリンセス」とまで言われた。
 しかし、当時、観客はほとんどが白人であり、彼女の人種を問題視した。ショーのキャスティング、彼女の外見や歌唱力などを批判する否定的なコメントが、ソーシャルメディアで相次いだのである。つまり、アリエルをほかの民族にしてしまうことに対する批判は、目新しいものではないのだ。

白人は日系人のアリエルを批判し、日本人は黒人のアリエルを批判する。
 伝統的には白人であるはずのキャラクターに、有色人種を配役するのは非現実的だという議論はしばしば起こる。だが、信じ難いのは、こうした人々は歌を歌う魚を問題としてとりあげず、「リアリティ」を気にすることだ。これが遠回しな人種差別なのは明らかである。
 ベイリーがアリエルに選ばれたことを問題視する日本人がいるなら、このように考えてみてほしい。ハリウッドでは、白人以外の人たちは、人種のカーテンを破って仕事を得ることに必死である。最近のマイノリティは、仕事を得ても政治的な理由が多く、ある時はダイバーシティ採用の一環として、またある時は単なるお飾りとして採用されている。そう、ハリー・ベイリーだって同様のケースかもしれない。
 しかし、マイノリティが特にこのような役を得るチャンスはまだめずらしいのだ。

多様性のカギを握るのは観客側
 インターネット上で発せられる不満は、ハリウッド中の映画会社の取締役の耳に届くだろう。彼らは、映画での多様性に対して、世界市場がどう反応するのかを見ている。黒人だけではなく、有色人種であるアジア人、インド人、ラテン系、中東系なども含めてだ。
 多様性がない、つまり白人が多いほうが見ていて心地いい、というメッセージを無意識にでもハリウッドに送ってしまうと、業界はまさにその通りのものを私たちに提供することになるだろう。
 私は個人的に、映画でもっと多様性に触れたい。あなたもそう思わないだろうか。