kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』のシナリオについて……言っておきたい事。

ダーリン・イン・ザ・フランキス』を今更ながらに見ました。
仕事が一段落して、
ちょっと時間ができたときに、
過去のアニメで話題作だった物をマメに見ているのですけど。
主に原作付きとかではない。オリジナル作品を中心にして。
いろいろチェックしているのですけども。
以前見たのは、
ドラえもん」の映画シリーズで、
その前は
ガンダムSEED」とか「コードギアス」とかサンライズロボ系でしたね。
あと「未来日記」とか。
まあ、それはそれとして。
ダーリン・イン・ザ・フランキス』の愚痴です。
シナリオが後半破綻してしまった問題作であるのは
ネットですでにユーザーの評価が確定しているので。
そこについて、
どうこう言うつもりはないのですけど。
主人公とヒロインのラブロマンスを中心に持ってきていた
前半からの着地点失敗した超展開になってしまった後半とかの
シナリオ構成については。
これはもう誰が見たって明らかにシナリオ構成の失敗、なんで。
それはそれで今更書くことがないのですが。
私的に気になったのは、
後半の超展開の部分で、
『魂こそが至高の存在で入れ物である肉体にとらわれた人間は不完全』
という間違った解釈を未だに当たり前のように使っている点です。
うーん、
そろそろこの『不老不死最高』的な自我の妄執にとらわれてしまった、
思春期全開の価値観はなんとかならんかなぁ。
商品開発とかしている人だと、
この辺のエッセンスというか、
核心である事実……、
『同一性』を維持し続けることは『死』と同義である。
って現実が理解できると思うのですけど。
世の中のあらゆる物が変化していく中で、
同一の存在を維持し続けることは、
どうやっても周囲の環境の変化に対応できないんですよね。
対応できずに存在が不要になる=死んでしまう、んです。
『それなら自分も変化して対応すればいいだろ』といいますけど。
その変化した自分は過去の自分と同一の存在と言えるのか、
という問題が発生するわけです。
つまり
個体を同一と特定できる、
個体を特徴付ける要素を抜き出して、
それが維持されている限りは同一個体として認める。という、
とても面倒くさい手続きが必要になるわけで。
この手続きがなくなってしまった場合、
『自他』の境界がなくなった、状態を
果たしてそれは
『個体として生きていると言えるかどうか』怪しい存在になってしまうわけです。
肉体を持っている限りは、
同じ肉体の中に継続的に保管されていることで、
『同一体』としての認識を担保されるのですけど。
肉体という枠が存在しなくなった場合。
『自他』の境界が曖昧になって、
究極的には『一であり全なる』存在になってしまうわけです。
物語の最後の敵として出てくるビルムは
どうやらそういう存在みたいなのですけど。
これ、
生物として究極的に不完全というか
「最弱」な存在なんです。
『一であり全なる』ということは一部の欠損が全部の欠損=全滅になる、ってことですから。
最後にビルドが放った言葉は嘘っぱちで、
あの瞬間はまさに『存在の消滅』が進行している状態なんですね。
『不完全であることこそが人間らしさである』
という作品的な解釈は、
実はこれだけではまだまだ不足していて。
というか生物学的には間違っていて。
『不完全である個体が、特性を次の命へと引き継いでいくことが究極の進化である』
というべきなんですね。
個体=種の個性として特定できる要素を抜き出して、
それを受け継ぐ『子供』を作って
維持が困難なった肉体を滅ぼしながら
次の世代へ命をつないでいく。
これは
一見不完全に見えて、
状況の変化を個体の中に取り込みながら、
対応できる個体を効率よく残していく手段としては、
実に合理的なシステムで、
『種を存続させる』という観点から見ると、
究極的に洗練されたスタイルなんです。
この辺は、
最近の進化の過程における研究成果でどんどん明らかになっているのですけども。
『魂は永遠』というのは、
いつまでも永遠に生き続けたい人間の妄執にすぎず、
そこには『魂は破損しない』という欺瞞が潜んでいて、
論理が飛躍しているんですよ。
プログラムはノイズが混じったとたんに壊れてしまうわけで、
魂にノイズが混じらないことを何を持って証明するのか。
『魂不滅』論にはこの証明の部分が決定的に欠けたまま、
永遠の存在である……というイメージだけが先行しているんです。

物質ではなくなり精神になったから壊れない……というのは大嘘で。

それが事実なら、

世の中に『ノイローゼ』とか『精神的ストレスによる不調』なんて存在しないわけで。

精神だけだろうが、壊れるんです。ノイズが混じらないことが証明されない限りは。

そんなわけで。

『魂になったから永遠の命を得られる』ってのは

大嘘なんですけども。
この手のテーマを扱うなら、
そろそろ次のステージできちんと掘り下げないと。
消化不良と言うより、
過去のチープな焼き直しにしかなりません。
私的には、
ダーリン・イン・ザ・フランキス』は
その意味においてチープな失敗作だと評価します。
見るからに、
お金たくさん掛かってそうなんですけどねぇ。
その分『売れる要素』たくさん詰め込むことを要求されて、
詰め込んだネタを掘り下げて消化することができずに
シナリオが破綻したんだろうなぁ。

 

 

とりあえず、公式サイトのブックマーク貼っておきます。

興味のある人は覗いてみてください。

 技術的には、今のジャパニメーションを代表するスタジオが結集して

作ってますから。

darli-fra.jp

 

 

 

うーん、
なんか腐しただけだと後味が悪いので。
私的ならどう結ぶか、くらいは書いておきますか。
まずビルムが崩壊するところで、
『存在の消滅』を明確にする。
つまり、
ビルムの解釈=魂永遠論が嘘っぱちであったこと、
彼自身が嘘を信じて現実を見ていなかったことを、
存在が消滅する中で、
焦るビルムと『永遠の存在なんてどこにもない』と断言する主人公で
明確にします。
その上で、主人公ヒロとゼロツーも存在が消滅していくわけですけど。
この物語での最大の失敗は、
『彼らが子供を残せなかった』ことです。
お伽話なんだから。
最後に砕けた石像の中から出てきたのは木の芽ではなくて、
木の芽と一緒に『竜と人間のハーフの子供』が出てきてもよかった。
青い角を持った子供と赤い角を持った子供が。
ゼロツーが残していた幼体が仮死状態から目覚めたとか、そんな設定で。
別人格であることをはっきりするために、
青い角した女の子と、赤い角をした男の子にして。
それでも、
周囲からは『これはヒロとゼロツー』の子供なんだ。って。
仲間がそう見なして。
強引にそういう存在にされてしまって。
そうやって道理をねじ曲げて、
ご都合主義全開に話を戻します。
物語の前半はこういうご都合主義全開の展開だったわけで、
そこの着地点としては
やはりご都合主義全開のおとぎ話的な展開に戻ってこないと、
収まりません。
で、
『ヒロとゼロツー』が子供を残すことには、
もう一つ意味があって。
『生まれ変わり』の可能性を持たせることができるんです。
これは最新の進化の研究で意見がわかれる説なのですけど。
というか、まだまだ眉唾物の学説なんですけど。
『記憶も遺伝される』という学説があるんですよね。
つまり
学習の成果が次代に引き継がれるのは、
単に親のまねをしただけ、ということだけでは説明しきれない状況がある。
ひょっとすると、
学習成果としての記憶も遺伝子情報の中に入っているのではないか。
それが人間がイメージする「記憶」レベルで行われているのか、
というと、
そこまで詳細な物ではなくて。
今のところ、獲得した形質を遺伝する情報が染色体に引き継がれて、
それで次世代が獲得形質を有効利用することができるようになる……とか言うレベルですけど。
神経細胞がより効果的に動くようになっていた、とかそういうレベルです。
でもって、
これを複雑化していくと、
『記憶が遺伝する』という状況も成立しえるのではないか、って可能性の話です。
そんな夢物語としては
『記憶が遺伝する』と言っても差し支えない状況があるわけで。
死の瞬間の
ヒロとゼロツーの願いとして、
生まれ変わってもう一度出会って恋をやり直したい、っていう、
というか、
それを信じて次の命に希望を託す、ってのは
おとぎ話としての定番ラストとしてアリでしょう。
で、ここまで舞台を作った上で、
そこから、
未来へ時間が跳ばします。
ここで絶対に押さえておくポイントは、
『ゼロツー系にも子孫を残させ繁殖させる』点です。
多様性を認める方向へ社会が向いている中で、
ゼロツー的な竜と人間の混血種を排除してしまった、
人間しか繁栄できない現状のラストの描写は、
あれは非常にマズいです。
(物語の中盤でゼロツーは、子孫を残せないことを告白しているのですけど。
 ラストの描写も含めたこの展開は、
 ハリウッドとかアメリカ市場的には、この脚本は絶対にありえないです。
 『劣性遺伝の排除』とか『特定人種の消去』の隠喩とも取られかねないので。
 最後に打ち倒される敵方がこれをやるのならアリなんですけど。
 主人公サイドがこれをやるのはタブーですね。
 それができてしまう日本は自由度が高いといえますけど。
 ちょっと諸刃の剣てきな危うさがありますね)
そこで、
生きてくるのが『ヒロとゼロツーの子供』の存在です。
これが最後におとぎ話的に石像の中から出てきたら、
この時点で物語世界は『お伽噺補正』が強力に発生してますから。
その後、
ゼロツーが残した木の芽が大木となっていく時の流れと
ともに人類が再興していく中で、
ゼロツー系の竜と人間の混血種もさらに人間と交わって、
数が増えていっても、
それほど説明がなくても『そういうものか』で
話の流れとして受け止められるはずです。
描写的には、今のエンドエピローグで出てくる人間の一部に
頭に角はやせばそれで済みますから。
難しいことではありません。
で、
最後に出てくる、
大木のもとで
黒髪の少年と
ピンク髪の竜種の少女が出会う……ってのが、
生まれ変わり的な、お伽噺的ラストとしての着地点としては、
ご都合主義全開で。
元に戻ってきた感じで安定する、と。
ただ、
ここまで露骨にガチガチに安定してまうと
話題性に乏しくなるので。
「そういう風に見えるかな。見ようによってはそうとれるかも」くらいに
ぼやかした描写にして。
想像の仕方によっては
ハッピーエンドともとれるよね。的なくらいに
着地させる方向でまとめられれば最高なんですけど。

 

 

ちなみに、
ウィルスでも絶滅します。
考え方としては、
無菌室状態を世界の果てまで広げればいいだけですから。
ただ、そんな馬鹿げた労力使う意義とそれを可能にする労力が
現実に見いだせないから誰もしないだけで。
あと、
あらゆる場所に拡散していくから駆逐されにくい、ってのが、
ウィルスみたいな微小の非細胞性生物の強みな訳で。
それが
ラスト回みたいにコロニー作って一カ所に集まっていたら、
そこを駆逐されて全滅してしまうわけですから。
自らメリットを潰しているんですよ。
自他の境界を外したんだから、一カ所に集まる必要ないだろ。
……分散してたらそれはそれでラスボスにならない。
って物語的な制約があるのはわかりますけど。
新しくこのテーマでやるなら、
そこを解消してほしかったですよ。
あと、
いろいろ制作側の意図は判りますよ。
『叫竜』ってのは、
自然破壊のメタファーで。

ココロの妊娠と出産が、自然回帰、復興のメタファーで、。
ゼロツーの物語的立ち位置は『妖精』で。
だから、
最後に木の芽が出てくるのは、
セロツーが叫竜の元々の姿=自然の中であるべき姿に戻った。
……サクラの木に戻った。ってことなんでしょう。
そういうお伽話のフォーマットにのっとっているのは、分かるんだけど。
メカ飛ばして、
惑星開拓して、
科学的なベースの世界観でドラマ見せつけている中で。
最後のそこだけ、
ひっそり『お伽噺』を入れられても。
視聴者はストレスたまるだけで。
『考察』とはしようなんて気にならないですよ。

ちょっと色々スマートじゃない、というか。

バラバラに散らかった物をそのまま無理矢理詰め込んだ感が、半端ないです。