正直、
この件については、私は物凄く腹を立ててます。
なんというか、
今回の騒動は、あまりにもお粗末な内容だったので、
とくに何か取り上げて物申す気はなかったのですけど。
ちょっと、
仕掛け人の説明が酷すぎる、というか。
無責任で、
これほどクリエイター、作家を馬鹿にした扱いはありませんよ。
はらわたが煮えくりかえる思いです。
なので、
思うところを書いておこうと。
この件について、
今回の騒動になったイベントブースの発起人とも言える津田某は、
作家に対して、
きちんと事態の経緯を説明し、謝罪し、了解を得るべきです。
それが仕掛け人としての最低限の責務ですよ。
その上で、
当初、どのような予定で、
今回のようなトラブルを予見……というか
そもそも来館者に何を伝えるために、
ここに集めた作品を、どのような基準で選んで。
選んだ作品の内容を観覧者にきちんと伝えるために
どのような手法を用い、適切に配慮したのか。
何をどの程度まで予想した上で、
何が足りなくて、今回のトラブルになったのか……
つまりイベント主催側の落ち度はどこにあったのか、
その詳細を、
作品を貸してくれた作者と
来場してくれた多くの観覧者すべてに、きちんと説明するべきです。
最低限それが、
企画実行した人間の『責務』ですよ。
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こういうコンセプト・アートって分野は、
一般人にはまずなじみがありません。
だから、
作品それ一点だけを切り出して見せられても、
そこの作品に込められた意義、意味、思い、
そして、評価は。
まず正しく理解出来ません。
判りやすく説明すれば。
『評価するために十分な情報を持たない人に、
正確な判断を求めても、
いったい何を見せられているのか、それすら理解出来ない』
ということです。
英語がまったく理解できない人に、
英文の和訳を求めるのは無理ですよね。
それと同じです。
美術・芸術作品をきちんと鑑賞してもらうためには、
大まかに、
『作品の時代背景』と
『作品を創造した作家の事情』と
『作品に使われている技術』と
最低限、この程度の知識は必要です。
とてもじゃないですけど、
ペラ1枚程度の簡単な説明で終わるものではありません。
場合によっては、
というか、ほとんどの作品がそうなのですが、
個別の作品、単体で説明しきれるものではないので。
関連する作品を、
年代ごとに前後に並べて変遷を見せたり、
技術分野(~~派)毎にまとめて、特徴を見せたり。
作家の個人史を展示して、
作家の内面でどのような文脈においてアウトプットされたのか。
関連する情報をまとめて提示したり。
それだけの配慮があって。
ようやく、
作品に込められた意義、意味、内容の片鱗が鑑賞者に伝わるか、どうか。
というものなのです。
そういう、
作品展示に関する細かい、あるべき配慮がなければ、
単に
『好き』か『嫌い』かの感情で一瞬で消費されて終わるだけの、
週刊誌の写真グラビアと同じ扱いですよ。
今回、
騒動が起きたのは、
まさに運営側にこのような配慮がなかったために起きた、必然ですよ。
というか。
運営側が作品を単なる『消費財』としか見なしておらず、
『作品』としてきちんと扱っていなかった。
この問題の原因は、その点につきます。
劇薬だったのが、悪いのではありません。
『劇薬である』物を理解して貰うための、
説明、配慮などの企画運営側の取り組みが不十分だったのが問題なのです。
作品に罪はありませんから。
作品の見せ方、展示手法に問題がありすぎたのです。
作家のせい、作品のせいに責任転嫁するな!!
「抗議の殺到で中止せざるを得なくなることも予想していたが、決定は断腸の思い」。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、元慰安婦を象徴する少女像などを展示した企画展の中止が決まった。芸術監督を務めた津田大介氏は3日の記者会見で「日韓関係の悪化など非常に悪いタイミングが重なった。制御不能になってしまった」と無念さをにじませた。
中止が決まった「表現の不自由展・その後」は作品を撤去や公開中止となった経緯とともに展示し表現の自由についての議論を喚起することが企画の趣旨で、事務局側も当初から一定の反発を想定していた。
津田氏は、開幕前の7月31日には「まずは見に来て、その上で判断してほしい」と自信を見せていた。しかし、この日の会見では中止の要因を「物議を醸す企画を公立美術館でやることに意義があると思ったが、内容が劇薬過ぎた」と語った。
【名古屋聯合ニュース】愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会が慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」を中止したことを受け、同芸術祭に出品した別の韓国人作家たちが実行委員会に作品の撤去を求めたことが4日、美術界関係者の話で分かった。
同関係者によると、韓国人作家のパク・チャンキョン、イム・ミヌクの両氏は企画展の中止が発表された3日、実行委員会に電子メールを送り、出品した作品の撤去と展示中止を求めた。パク・チャンキョン氏は「チャイルド・ソルジャー」、イム・ミヌク氏は「ニュースの終焉」をそれぞれ出品している。
両氏は「展示の途中に作品を除外することは検閲であり、壁を建てて見られなくするのはあり得ないこと」と抗議の意を示しているという。
表現の不自由展は今回の「あいちトリエンナーレ」の企画展の一つ。75日間の展示予定だったが、少女像展示への抗議などを理由に3日で中止となった。
なんか、
上に書き殴った文だけだと。
私の意図を誤解されそうなので、
この下にも足しておきますが。
私は、
今回の展示物を全肯定しているのでは、ありません。
騒動の原因の一つ、
として取り上げられている『慰安婦像』とか。
あれなんか、
日本人にとっては『反日プロバガンダ』の道具ですよねぇ。
けれども、
韓国人にとって。
製作した作家にとっては、別の意味があったりします。
……するかもしれない。
じゃあ、
日本人と韓国人では、どうして捉え方、見方が違うのか。
その違いは、どこから生まれて、どのようにして確定したのか。
そういう、
作品が持っている、意義、意味、内容を
観覧者に理解して貰う。
納得は無理でも、理解して貰う=知ってもらう。
『展覧会』というのは、
そのための機会、場所なんです。だから作家は作品を貸し出すのです。
そして、
観覧者に作品をよどみなく理解してもらうために必要な仕掛けは、
それは、
作家や作品の仕事ではありません。
企画運営した側の仕事なんです。
『並べて終わり』ではないのです。
『見て理解しろ』は本来あり得ないのです。
私は、
慰安婦像の作者の肩を持つ訳じゃありませんけど。
それなりの覚悟を持って、貸し出したのだろう……とは
想像がつきます。
像を日本人が嫌っているのは、作者だって承知しているはずですから。
最悪、
展示中に、像が破壊されることだって。あり得るわけで。
戻ってこない……って事になる可能性もあるわけで。
それでも貸し出したのですから。
ところが、
津田某が企画した今回のイベントは、
そういう作品に込められた意図とか覚悟とか思いとか、
そういう物が、
全部そぎ落とされて、
ただ並べてあるだけ、という。
そりゃあ、ないよ。
その扱いは、ありないよ。
なにを展示しようと思ったの?