新型コロナ肺炎騒動で、
すったもんだと連日騒がしい日々が続いている中。
それ以外の話題は、
ほとんど関心をもたれないまま
どんどん埋もれていきます。
その中で
気になったものにブックマークを付けてみました。
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まずはこれ。
あれから、
もう9年が経ちました。
10年目に突入ですよ。
早いものですよねぇ。
いや、
永いのかなぁ。
どうなんだろう。
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私が
最近感じているのは。
新型コロナ肺炎騒動で、
世界中がひっくり返ってしまった中で。
それでも。
どこか『楽観視』して、
今の騒ぎを
突き放して見ていられるのは何故だろう。
と考えたとき、
思い当たるのが、
このかつての経験、
『東日本大震災』を被災して経験があるから。
だと。
そこへ行き着くんですよ。
結局、
新型コロナ肺炎は、
怖い病気なんですけど。
それじゃあ、
生活が行き詰まるのか。
と言われれば、
そこまでではありません。
電気もガスも水道も使用可能ですし。
金銭面で困りますけど。
また
日常必需品が手に入りにくくなりますけど。
『どうやっても手に入らない』って状況では
ないですから。
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東日本大震災の時は、
『輪番停電・電気使えない』
『断水・水使えない』
『食品が手に入らない』って。
経験しましたからねぇ。
それも
数ヶ月にわたって。
地域停電したら、
流通とか小売店の冷凍庫が全部使えなくなるので。
『肉』『魚』『冷凍食品』とか
『納豆』とか『もやし』とか『ヨーグルト』とかね。
店先から消えるんですよ。
きれいサッパリ(笑
そんな状況で、
フクシマから飛んでくる放射性物質で、
毎日、
放射線量が増減して。
水源地が汚染された、とか。
水道の供給を一時停止する、とか。
大騒ぎになったり。
信号機が使えなくなって、車も満足に走れない世の中でした(笑
真夏日にクーラー使えねーの。どこへ行っても(笑
でも
東京の中心部、
官公庁は優先的に電源供給されて。
周り真っ暗な中でも煌々と
輝いていたりしてね(藁
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私の腹が据わったのは、
アレが、切っ掛けですねぇ。
あの時は、
マジで、
東日本を捨てて脱出していった人達が
たくさんいました。
それを見て、
『逃げるなら
今持っている物を全部捨てて逃げるしかない。
それが出来ないなら、
今居る場所で踏ん張るしかない』
って。
腹が据わったんですよね。
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その後も、
色々と災害や困難な局面がありましたけど。
いったん、
心構えが決まる、と。
あとは、
どうにでもなる。
というか。
『線引き』が出来てしまうんですよねぇ。
2020年3月14日 16時04分
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、福島県の富岡と浪江の間で運休が続いていたJR常磐線が14日、9年ぶりに全線で運転を再開しました。首都圏と仙台を結ぶ特急の運転も再開され、現地で式典が行われました。
東京の日暮里と宮城県の岩沼を結ぶJR常磐線は、東日本大震災の直後、全線で運休し、津波の被害が出た区間や福島第一原発の周辺の広い範囲で運休が続きました。
復旧が進むにつれて運休区間は徐々に解消し、福島県内の富岡と浪江の間の20.8キロが残されていました。
浪江駅では14日朝5時53分、鉄道ファンなどが見守る中、上りの普通列車が出発し、全線で運転が再開されました。
再開された区間では、普通列車が1日に11往復するほか、特急「ひたち」も品川や上野と仙台を結ぶ便が3往復、再開されます。
双葉駅では午前中、記念の式典が開かれ、地元のグループの太鼓の音が鳴り響く中、再開された特急の一番列車となる下りの「ひたち3号」が予定より10分ほど遅れて到着し、出席者の歓迎を受けていました。
常磐線の9年ぶりの全線運転再開で、周辺の住民の利便性の向上や首都圏などから訪れる人が増えることが期待されています。
JRによりますと、これで東日本大震災の影響で運休が続いていた区間はすべて解消されました。
富岡駅から双葉駅まで下りの1番列車に乗った千葉県の50代の男性は、「昔から仙台に行くときよく使っていたので、東京方面から仙台まで直通で行けるのはうれしいです。駅と線路は新しくなっても町は昔のままで不思議な感じもしましたが、常磐線の再開で前に進む復興の様子をこれからも見ていきたいです」と話していました。
記念のTシャツを着て、下りの一番列車に乗ったいわき市の小学6年生の男の子は「沿線の人が手を振っていたのでどんなに常磐線の開通が待ち遠しかったのかが分かりました。海が見える区間があったのが印象的でした。これから常磐線にたくさん乗りたいと思います」と話していました。
再開された区間にある夜ノ森駅と富岡駅の間の線路沿いでは、地元 富岡町の人たちが桜をイメージしたピンクのかっぱや傘で歓迎していました。
全線開通を祝う横断幕を掲げ、列車が近づいてくると「おかえり、常磐線」などと声をかけていました。
近所に住む60代の女性は「地域の重要な線路なので、全線開通を機に多くの人が町を訪れてほしい」と話していました。
町で働く20代の女性は「原ノ町駅行きという、これまでと違う表記を見てうれしくなりました。これからも常磐線を利用したい」と話していました。
再開された区間にある福島県大熊町の大野駅には、すぐ近くに自宅があるという渡辺英政さん(55)が避難先のいわき市から列車に乗って訪れました。
渡辺さんは身近な常磐線の駅や列車の写真を撮影するのが長年の趣味で、今回の再開を待ち望んでいました。
しかし、一家が明治時代から住んできたという自宅は、9年前の原発事故にともなう帰還困難区域にあるため生活はできず、今後解体することにしています。
再開された大野駅の近くに新たな自宅を建てることを考えていますが、生活環境に不安もあるといいます。
渡辺さんは立ち入りを規制するフェンスの向こう側にある自宅を見つめながら「すぐ近くにある自宅に戻れないのはもどかしい。いずれは大野に帰りたいとは思うが、思いだけで生活ができるかは難しく、振り子のように気持ちが揺れ動いています。常磐線再開は復興への第一歩だと思います」と話していました。
福島県富岡町のJR富岡駅には震災当時、駅長を務めていた寺崎秀一さんが(65)訪れました。
海岸からおよそ400メートルにあった当時の駅舎は、津波で大きな被害を受けました。
地震の激しい揺れのあと、寺崎さんはホームにいた利用客に避難を求め、駅前の広場で待機させました。
しかし、大きな津波が押し寄せてくるのが見えたため、客とともに近くの高台まで走って登り、難を逃れたということです。
その後、駅周辺には避難指示が出され、再び駅長として戻ることはありませんでしたが、あの日以来となる常磐線の全線再開の節目に新しくなった駅の姿を一目見ようと訪れ、仲のよい友人たちと列車の到着を待ちました。
そして、9年にわたり不通となっていた浪江方面に向けて発車すると、その様子を静かに見つめていました。
寺崎さんは「当時は富岡駅を人が利用することは二度とないと思っていたので、きょうみんなが笑顔で電車に乗る姿を見て大変感動しました。常磐線の再開で富岡町のにぎわいが戻ることを願っています」と話していました。
寺崎さんは今月から地元のバス会社に再就職し、被災地の交通網の充実に貢献したいとしています。