kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

お悔やみ申し上げます ―― すぎやまこういちさん死去 90歳

うーん……
なんというか、
本当にショックが大きいと、
お悔やみの挨拶をまとめるのも
億劫になるものなんですねぇ。
そのことを考えるのがツラくて
言葉を綴るのもツライ、
というか。



この方とは、
直接お会いした事はありませんでしたが、
業界の端に席を置いていた者として
そのお名前は
ちょくちょく目にする機会がありましたし。
さらに稀になりますが、
知人から
この方のお話を聞く機会もありました。
巷では
この方の功績について
ゲーム音楽のパイオニア』と評したりする人が
いますけど。
この方と
ゲーム業界の関わりついて語るのなら。
私的には、
それはちょっと違うかなぁ。と
感じています。
ゲーム音楽』の
勃興期からひもといていくと。
この方以前に……
家庭用ゲーム機や
パソコンゲームが世に出る以前の
アーケードゲームの黎明期において
すでに
ゲーム音楽というか、
ゲームのBGMを作っていた人がたくさん居て。
その中には
音楽として、
曲作りに挑んでいた人が
山ほど存在しています。
今でこそ
どの作品でも
ゲーム音楽の作曲家、という立ち位置が
確立していますけど。
黎明期は
ゲーム制作会社の社員で作曲家なんて認識はなくて。
既存のクラシック曲をもとに
データ上でアレンジして
作ったり。
中には
音大生に
バイトで依頼したり。
そんな具合に
『ゲーム中に奏でる音楽を作った』という視点で言えば、
イオニアと言われるべきは
そういう方たちでしょう。
そういった先駆者の方々がいなければ
その後の
パソコンゲームなり
家庭用ゲーム機のゲームで、
『ゲームの中で音楽を奏でる』流れそのものが
存在していなかったのかもしれないのですから。



ただ、
その後のゲーム音楽の発展について語るとき、
やはり
この方の存在を抜きにしては語れません。
というか
今のゲーム音楽の在り方は
この方が居なければ
ここまでの拡がりにはなっていなかっただろう、
と。
間違いなく
そう断言できます。
冗談抜き、誇張抜きで。



この辺は
なんと言えば良いのですかねぇ……
ゲーム音楽って
日本の音楽界の中では
いや多分
世界の音楽界の中でも『鬼子』的な存在で。
音楽界とは
ほとんど関わりがないところから始まって。
その成長発展は、
数字(データ)を基にして組み立てていく、
という。
いびつな形で生まれたところから
独自に育ち進んできましたから。
ゲームの中でも
イラストレータ-とかグラフィックデザイナーは
とりわけ目立つ部門であるためか
かなり早い段階から、
専業の意識が
業界内でも確立されていて。
場合によっては
外部のプロに頼んだりしていたのですけど。
音楽については
ゲームメーカー毎に
独自に発展して
どうにかこうにか
音楽としての形を煮詰めていった
ある意味
『根無し草』の状態でした。
音楽なのだけど、
意識というか実感が薄かった、というか。
音楽として
認められていなかった、というか。
単なる
断片的なメロディーであって。
音楽ではない、みたいな。
当初、
ゲーム音楽に対する世間一般の認識は、
そんなところから始まって。
そこから
ゲーム音楽
音楽界の中に引き込んで、
しっかりと根付くように世話して
その後の発展の道筋を付けてくれたのが
この方です。



いうなれば
『日本ゲーム音楽世話人』と呼ぶのが
もっともふさわしいでしょうか。
単に
曲を作り発表するだけにとどまらず、
コンサートを開いて、
ゲームに興味関心を持たない人に対しても
音楽としての存在を示したり。
著名な音楽家演奏家、歌手とコラボしたり。
作曲家として
ゲームから離れた場所で活動する場を与えたり。
それは
この方だけの功績ではありませんが、
この方の存在抜きに
なしえなかったのも事実です。
この方が手を尽くしたくれたおかげで、
ゲーム音楽
ゲーマーの中で愛好されるだけの存在から。
広く
一般に認知されて。
社会的な地位を確立した、と言っても
過言ではありません。
そして
その集大成、
とも言える出来事が。
今年の
東京オリンピック2020の開幕式で
演奏された(使用された)
ゲーム音楽の数々でした。
まさか
ここまで広く世界的に認知され
受け入れられる日が来るとは……
業界人で
予想していた人は
誰一人居なかったんじゃないのかな。
このシーンは
私も
業界人の端くれとして
感無量でしたねぇ。



ゲーム音楽
今あるこの場所にまで到ったのは。
間違いなく
この方の尽力抜きには有りえませんでしたよ。
この方は
新しい世界にチャレンジして楽しんだだけで。
業界の為に尽力した、とか。
そんな風には考えていなかったのでしょうけど。
一業界人として
どれだけ感謝してもし足りないほどです。
そのような
業界の大恩人が
この世をさられてしまったのは
大変残念であるのと同時に、
大黒柱を失ってしまった業界が、
この先
どうなるのか
不安でもあります。
ここは、
本来、
『遺志を継いで頑張ります』と
気張るべきところなんですけどね……



なんか
最期は話がそれて
グダグダになってしまいましたね……
長い間
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。

 

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すぎやまこういちさん死去 90歳「ドラゴンクエスト」など作曲

ゲームの「ドラゴンクエスト」シリーズなど、幅広いジャンルの音楽を手がけてきた作曲家のすぎやまこういちさんが先月30日、敗血症性ショックのため亡くなりました。90歳でした。
すぎやまさんは東京都の出身で、幼いころから音楽に親しみ、東京大学を卒業後、民放のディレクターとして働きながら作曲家としての活動を始めました。
1960年代にはザ・タイガースの「君だけに愛を」やヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」など、グループサウンズのヒット曲を数多く手がけたほか、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」など時代を彩る楽曲を次々と送り出しました。
アニメの主題歌やゲームの音楽なども数多く手がけ、中でも人気ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズでは、1986年の第1作から第11作まで全作品の音楽を30年以上にわたって作曲し、冒険の世界を彩る音楽が世代を超えて親しまれてきました。
2016年には「最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家」として、ギネス世界記録に認定されたことで話題になりました。
日本作編曲家協会の理事長など音楽団体の要職を歴任し、長年にわたる貢献が評価されて2018年には旭日小綬章を受章し、2020年には文化功労者に選ばれました。
また「ドラゴンクエスト」のオープニングテーマは、ことしの東京オリンピックの開会式で選手団の入場行進でも使われました。
スクウェア・エニックスによりますと、すぎやまさんは先月30日、敗血症性ショックのため亡くなりました。
90歳でした。

「ドラゴンクエスト12」の作曲が最後の仕事に
ドラゴンクエスト」シリーズを制作する「スクウェア・エニックス」は、ホームページですぎやまさんについてコメントを発表しました。
それによりますと、すぎやまさんは現在制作中の「ドラゴンクエスト12 選ばれし運命の炎」の作曲が最後の仕事になったということです。
シリーズの500曲以上におよぶ楽曲をすべてひとりで作曲してきたということで「これからも共にご制作いただきたく思っておりましたので、誠に残念でなりませんが、ドラゴンクエストの音楽は永遠に皆様の記憶の中にあり、ドラゴンクエストのゲームの世界でいつまでも生き続けてまいります」とコメントしています。

堀井雄二さん「ドラクエはすぎやま先生の音楽とともに」 
すぎやまさんが作曲を手がけた「ドラゴンクエストシリーズ」の原作者として知られるゲーム作家の堀井雄二さんは「すぎやま先生の、あまりに突然な訃報を聞き本当に残念でなりません。ドラゴンクエストを作って35年、その世界に、すぎやま先生は音楽という命をずっと吹き込んできてくださいました。先生には本当に素晴らしい楽曲をいっぱい書いていただきました。これからもドラクエは、先生の音楽とともにあります。ユーザーの皆さんの心の中に先生は生き続けるはずです。すぎやま先生長い間本当にありがとうございました」とコメントしています。

鳥山明さん「長く一緒に仕事 本当に光栄」
ドラゴンクエスト」シリーズでキャラクターのデザインを手がけている漫画家の鳥山明さんは、「スクウェア・エニックス」のホームページで「すぎやま先生の訃報を聞き、驚いています。つい数年前にお会いした時の印象からもいい意味で、永遠の命を持つ魔法使いのように思っていました。ドラゴンクエストのイメージは、当時からゲームが大好きでいらした、すぎやま先生の素晴らしく印象的な数々の名曲によって決定付けられた。と言っても過言ではありません。長くご一緒に仕事をさせていただいて本当に光栄でした!心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。
岸部一徳さん「沢山の名曲を作って頂いた」
すぎやまさんが数多くの作曲を手がけた「ザ・タイガース」のメンバーだった俳優の岸部一徳さんは「ザ・タイガースのデビュー曲をはじめ沢山の名曲を作って頂きました。今でも、メンバーがそれぞれ、すぎやま先生の曲をステージで歌っています。ありがとうございました」とコメントしました。

すぎやまさんが作曲した楽曲(一部) 
すぎやまさんは「ドラゴンクエスト」シリーズの500曲以上におよぶ楽曲を作曲するなど、幅広いジャンルの音楽を手がけました。
1960年から70年代にかけて、
ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」(1968)
ザ・タイガースの「僕のマリー」(1967)「花の首飾り」(1968)「君だけに愛を」(1968)といったグループサウンズのヒット曲のほか
ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」(1967)
GAROの「学生街の喫茶店」(1972)など数多くの作品を送り出しました。
また「帰ってきたウルトラマン」などテレビ番組の音楽を担当したほか、東京競馬場中山競馬場で使われるファンファーレも作曲しました。

スクウェア・エニックス社長「素晴らしい楽曲に敬意と感謝」 
ドラゴンクエスト」シリーズなどを制作する大手ゲーム会社「スクウェア・エニックス」の松田洋祐社長は会社のウェブサイトで「すぎやまこういち先生の突然のご訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。『ドラゴンクエスト』シリーズの誕生から今日に至るまで言葉では表せないほどの多大なご尽力を賜りました。ドラゴンクエストコンサートでオーケストラを指揮される先生のお姿が昨日のことのように思い起こされます。これまでのご功績と、すぎやま先生が作り出された多くの素晴らしい楽曲に敬意と感謝を表しますとともに、心よりお悔やみ申し上げます」とコメントしました。

音楽評論家「幅広いジャンルで時代を越え活躍 超一流の作曲家」
音楽評論家の富澤一誠さんは、すぎやまさんが手がけた音楽について「60年代から70年代には数々の昭和歌謡曲を手がけて大ヒットとなり、そこで終わることなく70年代半ばからはアニメソング、そして80年代以降はゲーム音楽で支持を得るなど、幅広いジャンルで時代を越えてカメレオンのように活躍した、超一流の作曲家だ」と評価しました。
そして、幅広いジャンルで人気の楽曲を作り続けることができた理由について「『おもしろいことなら何でもやってみよう』というすぎやまさんの好奇心のたまものだと思う。売れる楽曲を狙って作ったわけではなく、好きな楽曲を作ってそれが支持されたことがすぎやまさんのすごさだ」と述べました。
そのうえで「90歳まで第一線で活躍された功績は大きく、楽曲はこれからの時代にも親しまれていくのは間違いないと思います」と話していました。