kg_noguの愚痴日記

アラfi親爺が日々の愚痴を綴るブログです。だいたい日韓関係とか。最近はコロナ情報がメイン

最近、日韓関係について思うこと――「韓国人が本当に思っていること」 - 韓国元外交通商部東北アジア局長・趙世暎

今日、ちょっときになったのは、
たまぁ……に見に行く、記事サイト「BLOGOS」に掲載されていた、
文藝春秋のキャンペーン記事からの抜粋です。


「韓国人が本当に思っていること」 - 韓国元外交通商部東北アジア局長・趙世暎 「韓国人が本当に思っていること」 - 韓国元外交通商部東北アジア局長・趙世暎
<テーマ:ナショナリズムの衝突は回避できるのか>
人間は自分が見たいものだけ見ようとする?
日韓は今、映画「羅生門」の登場人物のように、自分の世界観だけを声高に主張しているのではないか

韓国 東西大学校特任教授 趙世暎
 人間は自分が見たいものだけを見ようとする。私は授業で学生たちにこのことを説明する時、日本映画「羅生門」を例に挙げている。はたして世の中に真実は一つなのか、ファクトは一つなのか。この問いは個人の社会だけではなく、国家間の関係でも重要な意味を持つ。

 自分の主張は違うけれどもなるべく相手の立場になって考えてみること、それによって相手の置かれた状況や思考回路を理解すること、これが外交の出発点であると思う。しかし相手の考え方を理解するということは、言うのは簡単でも実際は至難の業なのだ。

 それがお互いよく似ているようで、実際は相当違う文化や民族的特質を持っている日韓の間のことならなおさらだ。京都の人に時間があれば家に遊びに来てと言われたとして、ほんとうに行くのはバカだという話のようなものだと言えば分かりやすいか。

 最近日韓間には歴史や戦後補償問題をめぐって感情的な摩擦と対立が何時にも増して多いようだ。ここでは日本の方々が誤解しやすいいくつかの点について韓国の「思考回路」を説明してみたいと思う。

 まずは、本音と建前の区別が無用になったことである。

「韓国も実は慰安婦問題や歴史問題を日本に提起することには無理があるというのをよく分かっているけれども、国民世論や国内政治の事情のために表面的には日本に対して強く出ざるを得ない。だから日本が少しのリップサービス或は人道的な支援措置をして韓国政府のメンツさえ立ててやれば何とかなるはずだ」という見方が日本の中には存在するであろう。

 しかしそれは今の韓国の状況を見誤っていることだと思う。韓国国民は相変わらず日本との友好協力が重要だと思っているが、歴史問題や慰安婦などの戦後補償問題については、民主化と経済発展による自信を背景に断固たる立場をとっている。韓国がまだ途上国であった時は、歴史や戦後処理問題に多少不満があってもこれを後にまわして経済協力を重視する発想が通用したが、今やそうは行かなくなった。

 日韓の友好協力のためにも歴史問題や慰安婦問題は有耶無耶にしてはいけないという意見が韓国では主流で、インターネットとSNSの普及によってますます強くなり政府の外交姿勢にも直接的な影響力を発揮しているのだ。ある意味今の日韓関係の管理が以前に比べて難しいのは、表で言っているのがただの建前ではなくて本音であるという所にあるかもしれない。

 ある日本の知人は私に「韓国政府はなぜそんなに国内世論に弱すぎるのか」と不満そうに言ったが、国内世論からどんどん強い圧力を受けているのはどこの国も悩む、現代外交の難所であり、韓国特有の現象ではない。もちろん、軍事独裁から自らの手で民主化を勝ち取った自負のある韓国国民の声は他の国の場合よりも強いはずではあるが。


不完全な「敗戦処理」を補完した「平和憲法
 第二に、日本の戦後の基本構造のバランスのことである。

 韓国から見て日本の敗戦処理は非常に不完全なものであった。侵略戦争を起こし周辺諸国に多大な苦痛と損害を与えた責任に関する処理がとても曖昧になっている、天皇をはじめ戦争を主導した指導者たちに対する責任の問い方も不十分であったと感じている。もちろん東京裁判が行われたけれども、それによって十分な責任が果たされたとは思っていない。

 このような不完全性にもかかわらず、戦力を保持しない平和憲法を採択することによって日本が再び脅威にならない保障ができたため、日本の国際社会への復帰が容認されたのである。敗戦処理の不完全性が平和憲法の存在によって補完されてなんとかバランスが取れるようになったのが日本の戦後を支えた基本構造であると言える。

 従って日本がこのバランスから逸脱しようとする場合には韓国は憂慮と疑心を持たざるを得ないのだ。例えば、今安倍政権は集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。韓国としてはそれによって北東アジアの軍備競争が激しくなり地域の平和と安定に否定的な影響が出るのではないかと憂慮を持っているが、基本的には日本の主権に属する問題であり、現実主義的な安保政策として理解できなくもない。ここで重要なのがあのバランスの問題である。



 日本の戦後の基本構造の一つの柱である安保の側面で所謂「普通の国」への大転換が行われるなら、もう一つの柱である戦争責任の部分についてはこれをもっとはっきり強化するか、すくなくとも今までの歴史認識を揺るぎのないものとして再確認することが当然期待される。しかし残念ながら韓国には、安倍総理靖国神社参拝をするなど戦争責任の歯車を逆に回していることによって、二つの柱のバランスが崩れているように見えるのだ。

 第三に、東京裁判のことである。

 私は東京裁判が日本の敗戦処理の原点であると思う。東京裁判によるA級戦犯などの処刑によって日本が「最低限の」戦争責任を果たしたことになった。ここでの「最低限」という表現に対して日本の方々は違和感を感じるかもしれないが、韓国人の気持ちとしてはそのような表現にならざるを得ないのだ。

 一方で東京裁判に対する日本の方々の思いも私は分かっているつもりである。勝者による裁判であり、公平ではない側面があったかもしれない。A級戦犯の中にはその個人を考えれば気の毒なケースもあると思う。しかし様々な感情や思いはあるけれどそれを受け入れたことが、正に戦争に負けたという厳しい現実の意味する所ではなかろうか。

 東京裁判国際法的、歴史的に分析し評価をするのは学者等のやることであり、国家の指導者の立場にある人がやるものではないと思う。日本の政治外交を司る責任のある立場の人なら、ちゃんとわきまえて東京裁判はあくまでも敗戦処理という国際政治の領域でその意味合いを考えるべきであり、A級戦犯に対する追悼に繋がる靖国神社参拝は自制すべきである。

 日本の政治指導者が、いくら戦争で犠牲になったすべての戦没者を追悼し、二度と戦争をしないという決意から靖国神社を参拝するのだと主張しても、韓国にはこれが敗戦処理の原点を否定し国際政治の脈絡を無視することとして映ってしまう。

 第四に、所謂「謝罪疲労」のことである。

 日本には過去の不幸な歴史について何度もお詫びをしたにもかかわらず、韓国はいつまで歴史問題を蒸し返し謝罪を求めるのかという「謝罪疲労」とも言うべき現象がある。しかし村山談話や一九九八年「金大中・小渕パートナーシップ共同宣言」、二〇一〇年の菅談話などの蓄積により、今や韓国でも過去の歴史についての更なる謝罪の「発言」を求める声はあまり聞かなくなった。

 しかし韓国が問題視しているのは、謝罪発言があったにもかかわらず、日本の政治指導者たちがそれに符合しない言動を繰り返していることである。例えば安倍政権になってから村山談話河野談話を修正するとかしないとかという話をよく聞くようになった。もちろん安倍総理が談話の継承を確認したとはいえ、その前の言動を考えると韓国人としてはなかなか額面通りに受け入れられないのである。

 国交正常化から五十年近く経ってもなお歴史問題や慰安婦問題で揉めている日韓関係を目にして、「謝罪疲労」を感じる日本の気持ちも分かるような気がするが、一方で、反省と謝罪の表明があったにもかかわらず、後からそれに相容れない言動が後を絶たない、いつまでこういうことが繰り返されるのかという疲労感が韓国側にあるのも事実である。

 あの戦争と植民地支配に関する性格規定や責任の基本認識については、これまで日本が表明してきた立場に基づいて、少なくとも政治指導者が守らなくてはならないガイドラインのようなものが必要である。そのような確立された基準がないから、両方の疲労感が不毛の連鎖反応を起こしているのではなかろうか。


韓国を中国との連携に追いやっているのは
 第五に、歴史問題に関する韓国と中国の連携のことである。

 最近日本では韓国が日本を横目に中国に傾いているという見方が多いようである。特に去年の二月に就任した朴槿恵大統領が訪米の後日本を置いて先に中国を訪問したことと、就任から一年以上経っても日韓首脳会談に応じていないということがその背景にあると思う。  韓国外交の基本は米国との同盟と中国との協力パートナーシップ関係をうまく両立させることにある。両者の中でバランスの取れた身の置き方をするのが肝要である。米中の間で難しい選択を迫られるようなことがあってはいけないと思う韓国と、日米同盟を機軸にした中国けん制を当然視する日本とは発想が違うのだ。

 日本は民主主義と市場経済の価値観の共有を強調するが、韓国としては地政学的な立場も考慮せざるを得ない。それでもまだ韓国の外交の錘は中国とのパートナーシップより韓米同盟のほうに置かれていると言える。

 しかし歴史問題や戦後補償問題になると話は違ってくる。昨年十二月の安倍総理靖国神社参拝以降、中国の対応は今までとは完全に違う領域に入った。国際的な世論戦を展開しながら、慰安婦問題や強制連行された労働者問題で韓国と共同戦線を作って日本をけん制しようとしている。韓国の被害者や支援団体は当然中国との協力に賛成だ。

 でも歴史問題で韓中が連帯して日本に対抗することは必ずしも望ましいものではないという考えが韓国ではまだ多数である。しかし日本の指導者が靖国神社を参拝するなどして歴史問題を浮き彫りにさせると、歴史問題では中国と立場を共有している韓国としては自然に中国と連携するようになる。つまり、日本が歴史問題で「戦線を作る」ことは結果的に韓国を中国との連携に追いやることなのである。逆に歴史問題で戦線が形成されなければ韓国が進んで中国と連携して日本に対抗する可能性はそれほどないと言える。

 先日日本の知人に日本が歴史問題で戦線を作るべきではないと言ったら、現在日本には自ら歴史問題の「戦線を作った」という認識はあまりないという言葉が返って来たので随分驚いた。日韓で認識のギャップがこんなに大きいのかと改めて思い知らされた。

 このギャップを少しでも埋めるためには率直なコミュニケーションの努力を重ねるしかないと思う。心の中の気持ちを上手く相手に伝達する工夫が必要である。表に出して表現をしないと、お互い分かっているつもりで意外に実は分かっていない場合が多いのだ。

 二十年ほど前、東京で開かれた日韓・韓日協力委員会合同総会で韓国側の故申鉉?理事長が「物言えば唇寒し秋の風」と挨拶で言って日本の聴衆から大きな拍手を受けた。しかし今はそのような日本の美学はあまり通じなくなったような気がする。

 一方で最近の日韓関係や日中関係を見ると、首脳までが前面に出て勇ましい発言をするようになった。まるで自分の主張だけを強く言う「メガホン外交」のようで、コミュニケーションの不足どころか過剰に見えるかもしれない。しかし残念ながらこれは相手の考え方を理解しようと努力するコミュニケーションではない。


三国ともに抱く「屈辱」と「プライド」
 私が最初に日本に来て生活したのは一九八七年である。日中戦争や太平洋戦争での日本軍の勇猛を美化した映画や本が溢れているだろうと想像していたが、実際の日本社会の雰囲気はまるで違うものであった。韓国人が幼い時から国民の美徳として教育された「愛国心」という言葉が日本ではあまり聞こえないのが印象的であった。

 今とは違って当時韓国では映画館で毎回映画が始まる前、観客が皆席から起立してスクリーンに国歌が流れるのを厳粛に聞き終えて、席に座ったら政府が作った「大韓ニュース」を視聴していた。それがどこの国でも普通であろうと思っていた私には日本社会の実像はある意味衝撃でもあった。

 それ以降、日本と韓国はそれぞれ違うベクトルに動いた。韓国では民主化が進み以前のような国家主義的な色彩は随分薄まって行った。一方日本では国歌の斉唱や国旗の掲揚が広がり、「愛国心」という言葉もよく聞くようになった。最近米誌「タイム」の表紙を飾った安倍総理の顔写真の横に「THE PATRIOT(愛国者)」の文字が大きく並んでいたのは、その意味で示唆的であった。

 違う方向に動いた日韓の社会において共通した現象として現れたのがナショナリズムの台頭である。ナショナリズムの根底にあるのは、韓国の場合は日本による植民地支配の屈辱で、日本の場合は敗戦の屈辱であろう。ちなみに中国にはアヘン戦争以来一世紀以上に及ぶ屈辱がある。だから裏を返せば日韓中三国のナショナリズムはそれぞれの「プライド」にかかわるものであると言えよう。

「プライド」というものは、実はすごく自己中心的な所があって、時には偏狭なナショナリズムにつながりやすい。現に偏狭なナショナリズムを背景にした国内の世論に背中を押された形で、どこの国の外交もポピュリズムに流されやすくなっている。外交に柔軟性がなくなり、どんどん硬直化しているのだ。このままだと不幸な摩擦や衝突が起きる可能性がますます高まっていく。

 先に紹介した「タイム」誌の表紙には象徴的にも「安倍晋三はより強く、はっきりとした日本の夢を描いている。それがなぜ多くの人を不快にするのだろう」という問いかけが一緒に載っていた。己のプライドが重要であるだけに、相手のプライドも思い遣る。結局は相手の思考回路を理解するためのコミュニケーションが肝要だという一点に尽きる。意見の違いを解消することはできなくても、お互い誤解による誤判だけは回避しなければならない。

 ベトナム戦争当時アメリカの国防長官だったマクナマラ氏は後日「敵をまず理解せよ」というのが最大の教訓であったとし、「我々は互いに敵を誤解していた」と述懐した。そして彼は「ベトナム戦争アメリカとベトナム双方の指導者がより賢く行動していれば、避けることのできた戦争だった」と強調したのだ。(同じテーマの記事を読み比べる:韓国人にとって「反日」とは「道徳」なのである - 在韓ジャーナリスト 竹嶋渉)


プロフィール
チョ セヨン 1961年生まれ。高麗大学法学部卒。韓国外交通商部に入る。東北アジア通商課長、駐中公使参事官などを経て、2008年には駐日公使参事官も務めた。日本との外交を担当する東北アジア局長を経て退官。13年から現職。
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なんというか、
一日本人の私としては、
こういう主張を、当然のドヤ顔でされてしまうところに、
今日の日韓のギャップを強く感じずにいられませんねぇ。
もはや、日本人の大多数は韓国と友誼を結ぶことに、日本にとってどんなメリットがあるのか、
根源的なところから疑義を抱いている状態なので。
日本人にメッセージを送るつもりなら、日本が韓国と付き合うことでどれだけの利点があるのか、そこから強くアピールしてもらわないと。
外交改善の方策を、主観的に述べられても、
「そもそもそれって改善なの?」って疑問に思っている日本人には、まったく響かないんですよね。

こと韓国との外交問題については、
日本のナショナリズムが強まった……というより。韓国との交流にメリットが見いだせなくなった、からこそ。
これ以上何かしらすることに価値を感じられないから、行動しない。って現状を支持している状態なんですよね。
日本国民の多くがそういう状態になっているからこそ、安倍政権の外交も成立しているわけで。
それすらわからないようなセンスの元外交官の意見じゃ、残念ながら読む価値もないですねぇ。と思ったりするわけです。