これは暴論、ということを前置きとして書いておいて。
ざっくり思うところを書いてみる。
まず、私は高校、大学と奨学金を借りて就学し、卒業している。
その額合わせて400万円弱、すでに返済は終了した。
その点を踏まえての、
昨今の『奨学金悪者論』には納得がいかない。
そもそも、奨学金が存在しなかったら進学することすら危うい状態だった。
いや進学できなかっただろう。
なので『育英奨学金』については、大変感謝している。
借りる、借りない、についての判断は個人の決断だ。
私の場合は、どうしても学校に行きたかったから借りた、けども。
さもなくば、
お金の掛からない方法で学校へ行く他の手段を探すのか、
卒業した後で、その責任を問われるのも仕方がない。
学力が飛び抜けて優秀なら、
学校で奨学金を用意しているところもあったし。
予備校で奨学金を用意しているところもあったし。
これは奨学金とは呼ばず『特待生』という制度だったけども。
新聞配達のバイトにも、奨学生制度はあったし。
友達やいとこで、スポーツ特待生となって進学した人間もいたし、
本人の努力と才能が必要で誰でもできることではないのかもしれないけども。
日本社会は、
結果を出せば、誰かが助けてくれるシステムにはなっている、と思う。
ただ、過去の私みたいな、
とりたてて飛び抜けたところがなくて、
学力は中位の上から、上位の下、程度かそれ以下の人間は、そんな恩恵にあずかれないので。
自分で人生を設計するしかない。
で、昨今の『奨学金悪玉論』を見ていると、
どうもこの学生層にまで、
つまり、中流から下流にいたる学生まで、国の援助で無償で進学させろ。と言ってるようにしか見えない。
過去の私に照らし合わせて言えば、お金の苦労をせずに進学できる状況にするべきだ……という主張だろうか。
果たしてそこまでの支援が必要なのか、個人的にははなはだ疑問である。
現状に即して言えば、
大学生になったけども、
2次方程式が解けない、とか。中学教科書レベルの英文が読めない。とか。
そういう学生にも国は支援すべし、と言っているわけで。
(実際、大学の講義をする前段階として、高校レベルの教養を履修するところから
始めないと、講義が成り立たない大学が増えている、と耳にしている。
……教育学部卒業なので、個人的なツテからね)
それが税金の使い方として正しいのか? と困惑するのだけど。
『奨学金悪玉論』の人は、まず国が金をだせ、学生の資質は問わずに金を出せ、の一点張りの主張で。どうにも納得しかねる。
そこまで言うなら、国に頼らず、自前で奨学金を作って支援すればいい、と思いのだが。
全財産を寄付すれば、ささやかでも基金を作ることは可能だろう。
それもしないで、まず国庫という「他人の金」をアテにするところに。イヤらしさを感じる。
とまあ、個人的に思うところを書いてきたのだけども。
個人的には、奨学金を作るよりも、
国が指定した一流大学について(何が一流と認定されるのか、内容は十分な検討が必要だが)
学費含めて、費用は一切無料、勉学に必要な教材についても基本無料支給、としたらどうか。
これなら、優秀な人間が学費の問題で進学できない、という事はなくなるはずだ。
そして、これは日本人のみを対象にするのではなくて、
外国人でも優秀な人間は学費無料で勉強できるようにする。
とくに、この制度で日本の大学の門戸を開放して
国外から生徒を集めることにすれば、
(ただし、授業は日本語で行われることが前提で、学生は日本語で会話できる、試験を受けることができる能力が必須)
国外から、貧しい家庭に育ちながら能力のある学生(……と言っても、最低日本語履修できるだけの財力は必要になるけども)が日本に集まってくるのではないか、と思う。
はっきりいって、
奨学金ローンの返済に困っている学生を救うよりも、
国外の優秀な学生に日本に来てもらって勉強してもらう方が、
併せて日本語を習得し、日本の文化を肌身で感じてもらう機会を作る方が、
よほど日本のためになるのではないか。
私はそう考える。